Shadow ~In Perfect Unison~(1)

夏が過ぎたばかりだというのに、ひどく寒かったのを憶えている。
恐ろしいばかりに透き通った湖水のほとりに、その城はあった。
どこまでも透かし見ることができそうなその湖には底がない。
弱く頼りない北の日差しが湖面に降り注ぐ。
それがとどく深みまでは覗き見ることができるのだけれど、それより先はしんと不気味に静まりかえった闇が滞る。
湖面の揺らぎもそこまでは届かない。
動くこともない闇が、ぞっとするように冷たかった。

 

「何をしている?
ぐずぐずするな。」
湖のほとりにしゃがみこんでのぞき込んでいるセイランの背に、せかすような声がかかった。
「じきに城に着く。
そうしたらすぐに仕事にかかるぞ。
ぼんやりしてる暇はない。
行くぞ。」
早い紅葉が始まった湖畔の木立から、美しく色づいた葉が次々と降りてくる。
音もなく湖面に着水し、そして微かな揺らぎにその身を任せる。

「先生、枯葉がワルツを踊っていますよ。
御覧なさい。
楽しそうじゃないですか。」

せかされたことなど、まるで頓着する様子もなく、セイランは感嘆の声を上げる。
肩口ですっきりと切り揃えられた青磁の色をした艶のある髪が、湖をのぞき込む端正な横顔にこぼれかかっていた。
肩で大きく嘆息して、先生と呼ばれた初老の男はあきらめたようにセイランの傍に歩み寄った。

「さあ、セイラン、行くぞ。
おまえの興味はいろいろと尽きないことだとは思うがな、目下私達にはやらなくてはならない仕事が待っているんだよ。
枯葉のダンスはまた帰りにでも見るといい。
さあ立って。」

少年らしい華奢な薄い肩に、しわの刻まれた大きな手をかける。
セイランはそれでもしばらくぐずぐずと名残惜しそうにしていたが、やがて思い切ったように立ちあがる。
先生は既に先に歩き出していた。
湖の向こうに見える古い城。
どんよりとした灰色の空に沈む高い塔のある城が、今回の彼らの仕事場だった。


「だって帰りに同じものが見られるとは限らないじゃないか・・。」
唇を尖らせたセイランの小さな抗いは、森の小道をずんずん進む彼の師には聞こえない。
「ま、仕方ないか。
先生のおっしゃるとおり、仕事だからさ。
仕事って野暮なものさ。
大方はね。」
眦の切れ上がった大きな猫のような瞳が、少年らしくない大人びた表情をして見せた。
軽い皮肉を含んだ表情。
貴婦人のように品のある端正な美貌が、いっそう際立った。
頬にかかった髪を無造作にかきあげてから、軽快な足取りで彼は師の後を追い始めた。

 

 

主星の大貴族カタルヘナ家。
それがこの城の主の名前だった。
主星からかなり隔たった辺境のこの惑星は、ほんの短い夏の間だけ避暑にやってくるわずかの貴族がある他はほとんど人気のない寂れた場所である。
だがそれだけに人の手の入らない自然の森や湖がふんだんに残っていて、ひっそりと静かな美しいところでもあった。
セイランとその師は、カタルヘナ家の当主からある依頼を受けてここへやってきた。
この城の奥深く、隠すようにして飾ってある幾枚もの肖像画。
これの修復が今回の仕事であった。
無口で無愛想な執事が彼らを奥の部屋に案内した。
案内なしでもう1度、玄関まではとても戻れないだろうと思われる部屋数と長い廊下。
昼間でも薄暗いその長い廊下を、執事の手燭だけを頼りに二人はただ従う。
そして彼らの職場、奥の部屋へとたどり着く。
手の込んだ彫刻の施された大きな木製の扉が、きしみをあげる。
日のささぬ真っ暗な部屋内から、よどんだ空気が生暖かくかび臭いにおいと共にどっと流れ出した。
セイランはむずむずする鼻を押さえて、小さくくしゃみをした。
「なにさ、これ?
風も通してないのかい?」
三十の半ばをいくつか越したかのような壮年の執事は、自分よりも二回りは年下に見える少年の小生意気な口調にわずかに眉をひそめたが、どうやら黙殺することにしたらしい。
セイランには一瞥もくれないで、彼の師に無表情な視線を当てた。
「お分かりだと思うが、もう1度念を押しておく。
ここで見たものについて、一切の他言はお控え下さるように。
よろしいな?」
「承知している。
するべき事を終えれば、後は忘れるさ。
もともと、私には関心がないことだからな。」
穏やかな口調であったが、言葉は冷たい。
「仕事にかかりたいのだが…。」
さっさと出て行けといわんばかりの言葉まで、おまけでつけた。
絵師風情が!
明らかに侮りの表情を浮かべた執事が、不機嫌にくるりと背を向ける。
そして元来た薄暗い廊下に出て行った。
大きな扉が再び閉じられる。
部屋はとたんに、どんよりとした薄闇に戻った。

「セイラン、そこのカーテンを引いてくれないか。
こう暗くてはどうにもならん。」
師に言われるまでもなくセイランにも、この部屋の空気は我慢のならないものだった。
足早に窓の傍に近づいて、高い天井から降りた金色の長い房を力任せに引いた。
あずき色の厚いカーテンがしゃあっと音を立てて左右に割れる。
弱い日差しがそれでも薄暗い部屋を明るく照らし出した。
「窓も開けますよ。
こんなかび臭いところじゃあ、先生も僕も病気になりますからね。」
言いながらセイランは、既に窓の金具に手をかけていた。
天上まで届く細長い高窓が、ぎいっと不快な軋みと共にようやく開いた。
「一体いつから開けてないんだろうね。
この窓の重いことったら!」
ぶつぶつと不平を鳴らすセイランにはかまわず、彼の師はさっさと仕事に取り掛かっていた。
用意された脚立に上って、一番窓際に飾ってあった1枚の肖像画に手をかけた。
「おい、手を貸してくれ。
これはひどく曇っているな。
1度洗わないとだめか。」
すべての窓をようやく開き終えたセイランが、しなやかな身体を翻して師の元へ駆け寄る。
「無理しないでくださいよ、先生。
トシなんですからね。」
からかうような口調ではあったけれど、見上げる表情は心配げであった。
身寄りのないセイランにとって、今目の前で大きな肖像画を手に余らせている初老のこの師。
彼だけが、唯一セイランの家族のようなものであったのだから。
「僕がやりますから。
先生は下で待っていてください。」
「いや、そう人をトシより扱いするんじゃない。
大丈夫だ。
ほら、受け取ってくれ。」
セイランは腕を伸ばし、彼の体の半分ほどもある大きな額入りの絵を受け取る。
それは見かけよりもずっと重くて、あまり力があるとは言えないセイランはわずかによろめいた。
「だらしないな、セイラン。
私のことを気遣う前に、おまえの方こそ鍛錬が必要なようだ。」
頭上から笑いの混じった声がかかる。
ふてくされたセイランはぷいと顔を背けた。
「重さの見当がつかなかっただけですよ。
最初からわかってれば、なんてことはない。
先生こそ、僕をからかうの、やめてくれませんか。」
腕の中にある図体ばかりでかい、ありがちで珍しくもない構図の肖像画を、いまいましげに壁に立てかける。
古びてくすんではいたが、そこに描かれていたのは滅多にないほど美しい貴婦人の微笑だった。
「たしかに美しい女性なんだけどね・・。」
セイランの視線は既に絵師のそれになっていた。
「芸がないったらないよ。
素材は良いのにさ。
こんなありふれた絵にしてしまっちゃ、気の毒だ。」
「おいおい、鑑賞は後にしてくれ。
次があるんだぞ。」
頭上からまた師の声がかかった。
「先生、この肖像画は何なんですか?
かなりたくさんあるようだけれど。
同じ女性じゃないですよね?
全部違う人だ。
誰なんですか?」
腕をもう1度師の方に差し出しながら、セイランは壁にかかった何枚もの肖像画を見た時からの疑問を口にする。
先刻の感じの悪い執事とのやりとりの様子で、彼の師は事情を知っているように見えたから。
「聖地のな、女王陛下の肖像画なんだそうだ。」
なんという事もないといった風に、師は軽く言った。
「聖地?
あの主星にある聖地の女王陛下ですか?」
さすがにセイランの声が大きくなる。
「どうした?
おまえのようなこまっしゃくれでも女王陛下と聞くと、多少は驚くのか?」
次の1枚をセイランの腕に渡しながら、師はにやりと笑ってみせる。
「驚くようなことじゃないだろ。
女王陛下といえども、聖地に上がるまでは普通の人間だったんだ。
どこかで生まれて育った、ごく普通の暮らしをしていた頃もあったという事さ。」
「じゃあ、これは全部女王陛下の肖像画?
これが全部?」
ずらりと並んだ幾枚もの肖像画。
そこに描かれた美しい女性がすべて女王陛下だというのか。
一体ここはどういう場所なんだ。
セイランの濃い藍色の瞳には、隠しきれない正直な驚きが浮かんでいた。
「主星のカタルヘナ家。
ここからは歴代の女王が何度も輩出されているそうだ。
だが女王の出自は公式には伏せられる。
その特権を女王の生家が主張するのを防ぐためらしいが、そんなことはどうでもいい。
だが伏せられている以上、生家としても堂々と女王の肖像を飾るわけにもゆくまいて。
それでこんな遠く離れた辺鄙な場所に、栄えある家門の誉れ、女王陛下の肖像を飾っているというわけさ。」
セイランの注意は既に、壁にずらりと並んだ肖像画の方にあった。
長い腕を後ろに回し、すっかり鑑賞の体勢に入っていた。
ゆっくりと足を進め、何人もの美女の肖像を眺める。
ふと、足が止まる。
これは…?
もっとも新しいと思われるその1枚の肖像画には、濃い青の瞳を伏せた少女が描かれていた。
不機嫌を隠すように、ほんの形ばかりに上げられた唇の端。
それは微笑の形をとっているようで、何処か違う。
姿勢良く背筋を伸ばし、ゆったりと椅子に腰掛けている。
だがセイランには、彼女がいやいやながらそうしているように見えて仕方ない。
悪戯っぽい表情が、彼の藍色の瞳に浮かぶ。
「ねえ、先生。
この女の子も女王陛下なの?」
もはや気まぐれな弟子の手伝いをあきらめた師が、自ら重い肖像画を運び下ろしていた。
息を切らせながら、弟子の言う少女の絵に視線を上げた。
「ああ、それは今の女王陛下のものらしい。
たしか、ロザリアさま・・だったかな?
どうでもいいが、セイラン。
こっちへ来て手伝ってくれ。」
ついさっきまで師の身体を気遣っていたくせに、セイランはすっかりそれを忘れていた。
「ロザリアっていうんだ、この子。
ふうん・・。
笑ったらきっと綺麗なんだろうにね。
なにが面白くないんだろう。」
見上げた先にある少女の顔は相変わらず不機嫌で、
「かまわないでいただけません?」
そういう声が聞こえてきそうだった。
「ねえ、気になるじゃないか。
ロザリア、君は一体何が気に入らないんだい?」
早々と日は傾きかけて、ただでさえ薄暗い部屋の視界がぼんやりとし始める。
窓から入りこむ外気もひやりとその温度を下げて、初老の師は小さく身震いをした。
「セイラン、窓を閉めてくれ。」
その声も耳には入らない。
セイランは彼の興味を引いて仕方ない美しい少女の不機嫌な肖像を見上げて、飽くこともなかった。