Shadow ~In Perfect Unison~(12)

去るものは日々に遠くなる。
苦しみも哀しみもその記憶はやがてだんだんに薄れゆき、それゆえにこそ人は生きてゆけるのだ。
そう教えてくれたのは、確か祖母だったか。

午後の執務室。
とろとろと眠気が襲う。
ぼうっと靄のかかったような頭が、目の前に積まれた書類の山を拒絶する。
「コーヒーが欲しいわ。」
口を開くのも億劫だったが、このまま放り出してしまえるはずもない。
ならばせめて、眠気覚ましの濃いコーヒーが欲しかった。
傍の執務机で書類に目を通していた補佐官が、即座に立ちあがる。
「今すぐお持ちしますね。」
他にいくらでも人がいそうなものを、公には補佐官である彼女の親友は頑としてその役を譲らない。
ロザリアが女王の地位について以来、執務室で女王が口にするコーヒーを淹れるのは補佐官の仕事の一つになっていた。
もうお互いに、少女と呼ばれるには似つかわしくない時を生きているというのに、彼女は昔と変わらず甘いものが好きで、勢い彼女のコーヒーは薄くて苦味がない。
「もう少しだけ濃くしてくれない?」
1度そう頼んでみたことがある。
泣きそうな顔をして、
「ごめんなさい。」
そう応えてくれたのだけれど、その次に出てきたコーヒーはやはり薄く香りのないものだった。
「どうかしら?
ちょっといつもより濃くしてみたのだけれど…。」
ロザリアは曖昧に微笑んで、それ以上はもう何も言わず、黙ってそのコーヒーを飲み干したのだった。
今日も、その薄いコーヒーが出されるはずだ。
執務室の隅にあるコーヒーポットから、いつもと同じ濃さの香りが立ち上っていた。
ふう・・。
小さなため息が漏れる。
たかがコーヒー一つ思うようにはならない。
「君はあきらめることしかしない。」
彼女の嘆きをぴしゃりと封じた男の言葉が蘇る。
彼ならどうするのだろう?
親友の思いなどに頓着せず、きっと自ら好みのコーヒーを淹れることだろう。
「君の淹れたのは不味いんだ。
好みじゃないからね。」
それくらいのことは言うかもしれない。
あれからどのくらいの時間が過ぎたのか。
彼がここを去ってから一体。
繰り返される毎日は単調で、ロザリアはもうとうに時を数えることをやめていた。
明日も、明後日も、そしてその次も、きっと今日と大差ない。
同じ日々。
だとしたら時間を数えたところで仕方ない。
だが時には、こうして思い出す。
彼のことを思うときにだけ。
胸につきんと痛みが走る。
生きているかどうか。
それさえもわからない。
今ロザリアは、現女王として最後の残務処理をしていた。
力が衰えた彼女は、じきに新しい女王にその座を譲る。
後は・・。
考えていない。
とりあえず目の前の仕事を片付けること、それだけで精一杯だった。
「わたくしの務めだわ、これが。」
声に出していたらしい。
「何かおっしゃいましたか?」
補佐官が振り向いていた。
「もう少しねって・・、そう言ったのよ。」
取り繕った微笑には、疲労の色が隠しきれない。
「そうですね。
もうちょっと。
もうちょっとですね、本当に。」
同じく疲労が色濃くにじみ出て、赤く充血した緑の瞳が共感する。
「がんばろうね、ロザリア。」
新女王の即位はそれからすぐのことだった。

17才の時に出て以来1度も戻らなかった場所。
カタルヘナ家の屋敷は、彼女が出て行った時のままだった。
黒塗りのとがった鉄製の門は相変わらずいかめしく、その向こうに続く白い道の脇には丁寧に手入れされた緑の木立が立ち並ぶ。
門をくぐってしばらく歩くと小さな果樹園がある。
父が気まぐれに作ったその一角には、ロザリアの生誕記念にと植えられた杏の木があったはずだ。
薄いブルウのシャツにスカート。
それにやや大きなトランクが一つ。
それが元女王の旅装だった。
秋の初めの夕刻。
くれかかる西日が照りつける中、ロザリアはまぶしげに目を細めて自分の木を探す。
ひょろひょろと細かった幹が今ではふた抱え以上もありそうな、立派な大木になっていた。
色づいた葉がその高いこずえを飾り、西日に映えて赤く染まっている。
大きくなったのね・・。
何も変わらぬように見えて、時間は確かに流れているのだと教えてくれる。
「たくさん実をつけたのかしらね、今年も。」
普段台所に立つことなどない母が、ロザリアの杏だけは他人の手に渡さない。
夜遅くまでかけて、いくつものジャムの瓶詰めを作る。
そしてそれが1年の間、パイやタルトのフィリングになったものだ。
母の趣味だから・・。
あの頃彼女はそれをなんとも思わなかった。
とりすましたよそよそしい態度をとる母が、ロザリアの杏にこだわる理由が愛情だなどと考えもしなかったのだ。
だが今は、あの頃よりはわかるような気がした。
素直に愛情をあふれさせることのできる者とそうでない者がいることを、今のロザリアは知っている。
「わたくしが歳をとったということね。」
苦笑して身を翻す。
後はまっすぐに、屋敷の玄関へ向った。

「お帰りなさいませ。」
玄関で恭しく頭を下げたのは、見知らぬ執事だった。
そしてその後ろに、当主らしい一組の中年夫妻が立っている。
「長い間ご苦労様でございました。
後はわたくしどもに何事もお任せあって、どうぞ陛下にはごゆっくりあそばしますように。」
当主はロザリアの前にゆっくりと進み出て、そして深く頭を下げた。
「歴代の女王の中でも特別優秀な陛下であられたと聞き及びます。
我が家からお出し申し上げたこと、そしてわたくしがその方をお迎えできること、本当に望外の喜び。
驚懼の極みでございます。」
「ありがとう。
でももうそのような扱いはご無用です。
わたくしは、ようやく名前を返してもらえたのです。
ロザリアと、どうか心安く呼んで下さいね。」
畏まられるのはもう十分だった。
その扱いが彼女にここはもはや自分の家ではないと、かえって強く意識させることになるというのに。
ここでも一つ。
また、思うようにならないことがある。
仕方ないわ。
癖になっているのか、あきらめが薄い微笑を作った。
「それでは・・ロザリア様。」
遠慮がちに、当主夫人が傍に歩み寄る。
軽く首をかしげて、その微笑をロザリアは彼女に向けた。
「なに?」
「お預かりしているものがございます。」
つと差し出されたのは、うっすらと黄ばんだ封書。
怪訝に思いながらもロザリアは手を伸ばした。
「お帰りになったら必ずお渡しするようにと、ずいぶん以前に預かったものでございます。」
中身は知らぬらしい彼女が、大役をしおおせた安堵でほっと肩で息をする。
蝋で封印されたその封書の差出人の名は…。
ロザリアの視線がくぎ付けになる。
セイラン。
右上がりの細い字で、はっきりとそうサインされていた。