Shadow ~In Perfect Unison~(14)

白い布のかけられたイーゼル。
ずらりと並んだそれが、まず目に飛び込んだ。
老婦人が丁寧に一枚づつ取り去ってゆく。
ごわごわとした木綿の触れ合う音がして、後に現れたのは。
息をすることをロザリアは忘れた。
12枚の肖像画。
すべてロザリアを描いたものだった。

微笑んだ顔。
軽く不快を表した顔。
怒った顔。
泣いた顔。
それらすべてが生き生きと、ただ一点を見つめている。
その視線の先にあるものは。
セイランだった。
彼女の生きた表情を見ることができたのは、彼の他にはいない。
「ようやく戻ってきたんだね。」
声が聞こえた。
彼女の隣りで。
こわごわと顔を向ける。
彼女の知る姿のまま、セイランが微笑していた。
「言っただろ?
君がきっと僕を忘れられないようにしてみせる。
僕は思うようにするんだ。
この世をね。」
ほんの少し歪めた唇の端。
からかうような藍色の瞳もそのままだった。
「どう?
これで忘れられないだろう、君は?
この絵の前に立った時、君はいつでも会えるんだ。
僕にね。
そうしたら君は離れられない。
だってそうだろう?
一体他の誰が、君にこんな顔をさせてくれるって言うんだい?」
「そうね。
きっとあなたの思うとおりになるのでしょうね。
多分、わたくしはここから離れられない。
この絵の前からきっと。
そうして、わたくしはあなたに捕まるの。
この先ずっと。」
嫌ではなかった。
既にこの世を去った男の幻に縛られつづけることが。
よくよく自分は何かにしばられる運命なのだと苦笑しながらも、今度の縛りはこれまでと違う気がする。
「捕まるの、君には嬉しいことじゃないのかい?
他の誰でもない。
僕に捕まるんだからね。
これから先、いつか君が僕の傍に来る日までずっと、僕は君を自由にはしないよ。
放す気はない。
そう言ったはずだからね。」

12枚の肖像画の中ほどに、ただ一人で立つロザリアが話している相手が誰なのか。
老婦人にはわかっていた。
彼女には見えない夫の幻。
幾度現れて欲しいと思ったことだろう。
それでも彼は、1度も現れてはくれなかった。
もともと一所に長くとどまらぬ彼は、彼女と結婚した後もその習いをやめようとしなかった。
ほとんどの時をふらふらとよそで過ごす。
ときおりふらっと戻ってきたかと思うと、すぐさまこの館にこもってしまう。
そしてアトリエ代わりに使ったこの部屋に入ると、何をしているのかいつまでもいつまでも出ては来なかったのだ。
この肖像画を初めて見た時の衝撃。
誇り高い彼女が何度かそれとなく、自分を描いてほしいと頼んだというのに、
「ああ、いつかね。」
気のない返事でいつもすり抜けられた。
その夫が。
他の誰かを。
彼女も上流貴族の端くれなら、絵画のできを判別するだけの眼力は持っているつもりだった。
名高い画家であるセイランの名声を、さらに上げることが確実だと思える出来の絵。
それが幾枚も。
すべてに彼の迸る愛情と憧れが感じられた。
肖像画の中の女が見つめる先に、誰がいるのかもすぐにわかる。
激しい嫉妬が彼女の身を焼いた。
それでも彼女は彼を愛していた。
彼女の愛情を踏みつけにして、こんなことをする男でも、それでも。
「あの絵。
あれを彼女に見せて欲しいんだ。
頼んだよ。」
最後の床で彼女に微笑んだセイラン。
残酷な願いを彼女は無視できなかった。
「ええ。
きっとそうするわ。」
約束して後悔した。
けれどもう1度同じ場面に突き当たった時、やはり彼女は約束するだろう。
仕方ないのだ。
胸に冷たい氷の塊を抱いて、老婦人はロザリアを見つめる。
自分には許されぬ幻と話し続ける、憎く同時に羨ましい恋敵を。

「マダム?」
不審げに呼びかける声で、老婦人は我に戻った。
「どうかなさいまして?」
既に幻は去ったのか。
ロザリアが気遣わしげに自分を見ていた。
「いいえ、何でもないわ。
ただ少し、昔のことを思い出していたのよ。
昔・・、あなたにはそんなに昔には思えない時間だと思うけれどね。」
彼女自身、そんなに昔のことだとは思えないのに、あえてそう言った。
苦しんだ日々は今でも生々しく蘇る。
切ない恋。
見返りなど求めてはならない相手を恋したのだからと、何度も言い聞かせてきたのに、それでも苦しかった。
ただ与えるだけの愛情はとても。
「あなたもわたくしも…。
結局のところ、彼の思うとおりにされるのですわね。」
共感をこめた苦い微笑が、ロザリアの上にあった。
「わたくしはほんの一瞬の夏の思い出で、これまでもこれからも生きていかなければならない。
あなたは…。
あなたがわたくしをどう思っておいでだかわかるような気もするけれど、でもわたくしにはあなたが羨ましい。
あなたには現実の時間があった。
楽しいだけではなかったでしょうけれど、それでも生きた時間がセイランとの間に。
羨ましいわ。」
ふと目を上げた。
青い瞳がじっと見つめる。
嘘のない微笑を浮かべて。
「そう・・ね。
思うとおりに生きられる人間は多分ほんのわずかだわね。
そしてセイランは、そのわずかなうちの一人だった。
どうやらこれだけは確かだわ。」
老婦人の目にも、共感の微笑がにじんだ。
目の前の女もそして自分も、結局のところわがまま勝手なセイランに思うようにされるだけなのだ。
そして二人とも、それを恨んではいない。
彼に出会わなければ、知らずに済んだ苦しみは確かにあるのだけれど、同時に彼を知らなければあの一時だけの深く激しい陶酔感もなかったのだ。
2度と帰らぬ陶酔感を、これから二人の女は過去の記憶にだけ求める事になる。
幸か、それとも不幸か。
それを決めるのは他人ではない。
「わたくし、ここで暮らしたいのだけれど…。
あなた許してくださる?」
遠慮がちにロザリアが口にした時、老婦人は目を閉じた。
蘇る夫の言葉。
「きっと彼女はここで暮らすよ。
この絵を見たら。
きっとね。」
何もかも、彼の思うままだ。
軽いため息を一つついて、彼女はこっくりと頷いた。
「好きになさるとよろしいわ。」

遠ざかるロザリアの背を、窓辺で見送る。
じきに門をくぐり、その姿は見えなくなるはずだった。
「おばあさま。」
背中から声がかかった。
若々しい弾んだ声。
ゆっくりと振り向くと、興奮に輝く藍色の瞳にぶつかった。
「さっき玄関ですれ違いましたよ!
あれ、彼女でしょう?
肖像画の。」
紅潮した頬にはみずみずしい張りがあった。
早くに事故で亡くなった彼女とセイランの娘の子。
彼女を迎えに来るはずだった彼は、そこで思いもかけずロザリアを見かけたのだろう。
彼女が愛してやまない孫息子。
この年頃のセイランに生き写しだった。
「さあ、もう用は済んだわ。
帰りましょうか。」
彼の問いには応えないで、立ちあがる。
それに手を貸しながら彼は続けた。
「ねえ、おばあさま、そうなのでしょう?
僕はずっと会いたかったんですよ。
彼女、またここに来るのかな?」
きらきらと興奮に輝く瞳。
苦い思いで彼女は目を逸らした。
「さあ、どうかしらね?
わからないわ。」
だが彼は、そっけない祖母の返事に勢いをそがれた様子もない。
楽しげに決め付けるように言った。
「きっと会える。
僕はそう思うな。
会いたいって僕が思うんだもの。
きっとそうなるさ。」
見えない幻が、声だけを送ってきたような錯覚を覚えた。
深く息を吸って呼吸を整える。
そして微笑した。
「そうかもしれないわね。」
多分そうなるのだろう。
それは逆らえない運命のような気がした。
だが幸運なことに、自分はもうその運命を見ないでも済むだろう。
その前にはきっと…。
「帰りましょう。
日が落ちるわ。」
2度と来るつもりはないこの部屋を後にする。
銀のカギはさしこんだままにして。
振り返ることもなく、しっかりとした足取りで、彼女は館の玄関に向って行った。