Shadow~In Perfect Unison~(2)
シルクのジョーゼット。
白く透ける薄ものの向こうに、くっきりとくびれて張りのある裸身がうかがえる。
まるで生活感のない長い指がゆったりと口元に運ぶのは銀の煙管。
紅をささない起き抜けの唇が、薄紫の煙を細く吐き出した。
「もう日も高いというのに、お寝坊さんだこと。
そろそろ起きてはどうかしら?」
昨夜の余韻を色濃く残す気だるげな微笑。
館の女主は火をつけたばかりのタバコを、惜しげもなく傍のトレイにこんと落とす。
ゆっくりと寝台に近づいて、まだ乱れたままのそこに腰掛けた。
薄目を開けたセイランは、鬱陶しげに顔を背ける。
「放っておいてくれない?
起きたくなったら起きるから。」
軽い羽の上掛けを引きかぶって、セイランは己の姿を彼女の視界から隠した。
「わがまま坊や。」
いつものことだと女主は苦笑する。
もう19にもなるというのに、いまだ少年の匂いをしっかりと残した彼女の目下一番新しい愛人。
新進気鋭の天才画家。
昨今その聞こえも高い男なのだ。
生まれも育ちも謎のまま。
彼自身は一切語ることをしなかったけれど、それがかえって謎めいて、貴婦人のように取りすました彼の美貌に噂の尾ひれをつけていた。
いはく、セイランは高貴の血筋。
上流貴族の世界にあって、そういう落しだねのあることは珍しくもないことだったし、なによりも彼の美貌と傲慢でわがままな態度が、その噂に説得力を与えていた。
<無理もないことだわ。>
年若の彼女の愛人は確かに美しかった。
若さがいつもそれだけで美しいものであると、三十をとうに過ぎた彼女にはわかりすぎるほどにわかっていた。
だがセイランの美しさはそれとは違う。
まだまだこの先どのくらい伸びてゆくのかわからない、不確定で末恐ろしい彼の才能による輝き。
若さゆえのそれも確かに彼の魅力の一つであった。
けれどそれ以上に。
何ものにも縛られない、縛られたくはない。
そうやって自由気ままに生きている、世すれていない透明さ。
気まぐれで高慢で、けれど時に素直でとても優しい。
くるくると瞬時に変わる彼のどの一面もが、彼女には新鮮で好ましかった。
だから彼のすることが彼女にとってどんなにひどいことであっても、結局は許してしまう。
最後には。
そろそろ彼のわがままな気まぐれが飛び出す頃だ。
彼女は何処かで覚悟していた。
彼はこの館に長く居過ぎた。
この冬、カタルヘナ家の遠縁にあたる彼女の館に、肖像画を描く絵師として招いて以来、その仕事が終わっても彼はここへずっと逗留しつづけていたのだ。
もちろんそれは彼女がそう望み、口にこそ出さなかったが、彼が居続けるようにいろいろと、女らしいささやかな策謀を巡らせたからではあったけれど。
さらに深くベッドにもぐりこんで赤ん坊のように小さく丸まった彼の無邪気な寝姿を見やりながら、彼女は後もう少しだけこんな朝が続くことを願っていた。
夕刻。
早めの夕食、そして今日はじめての食事をセイランがとろうとしているところに。
ふいの来客があった。
「どなたかしら?
こんな時刻に、お約束もなしで…・。」
いかにも迷惑そうな様子の女主。
こうしてセイランとむつまじくテーブルを囲む夕食は、彼女にとってとても楽しみで大切な時間だったから。
ほんの少しだけ目を細めて、首を振る。
「お引き取りいただきなさい。
ご用だけはきちんとうかがっておくのよ。」
取次ぎに来た執事に短く不機嫌に言いつけた。
その言葉が終わらぬうちに、半開きになっていたダイニングの重い扉がぐいと引き開けられた。
「ご無礼いたします、マダム。」
セイランの師、そしてただ一人セイランが家族と思う老人だった。
「先生?
どうしたんですか?」
おもわず椅子から立ちあがって、セイランが目を見開いた。
それにちらりと視線だけを投げて、師はさらに女主に続けた。
「こんな訪問が失礼であることは承知しておりますが、火急の用件で是非ともセイランに会わなければなりませんでしたのでな。
お許しください。」
「火急?
おやおや、それはたいそうなご用のようだわね。」
苦笑しながらも、そこは大人の分別をする。
「夕食をご一緒にと申し上げたいところだけれど、どうやらわたくしは遠慮した方が良さそうね。
ここをお譲りするわ。
どうぞ、ごゆっくり。」
さやときぬずれの音をさせて、それ以外にはほとんど足音さえもさせず、彼女は立ち去った。
ダイニングの扉が閉まる。
後にはずらりと並んだ手の込んだ夕食の皿と、そこから上がるふわりとした白い湯気だけが残った。
「悪かったな、セイラン。」
灰色の目をなんどかしばたかせて、師はすまなさそうに詫びる。
「とんだ野暮だとは承知しているんだが…。」
「野暮?
単に夕食を一緒にする相手が代っただけじゃないですか。
おかしなことをおっしゃるんですね、先生は。」
子供っぽい笑顔でセイランはからりと応える。
彼にしてみれば毎日顔をつき合わせている愛人との夕食の時間より、何年かぶりに会えた家族との時間の方が大切であった。
この辺、彼は残酷なほど素直なのだ。
「おまえはいささかも変わっとらんな。
マダムにはいろいろと良くしていただいているのだろうに。」
そう言いながらも、言葉とは裏腹に嬉しそうだ。
愛弟子の高慢な芸術家気質とでもいうものが、彼にとっては小気味良い。
彼自身、どんなに懸命に伸ばしてもけっして手がとどくことはなかった美神の領域。
その加護を、身体いっぱいに受けて輝いているような彼の弟子だった。
それを育てたのは自分だと、誇らしい思いがする。
まばゆげに、そしてとろけるような微笑で、彼は愛弟子を見つめた。
「で、先生。
ご用って本当なのでしょう?
まあ僕としては先生に会えただけで良い。
それ以上のことに、興味はないんだけど。」
行儀悪く目の前の皿からぶどうを一粒つまんで口に放りこみながら、セイランが師を促した。
「ああ、そうだ。
良い話だと思うんだがな、おまえにも。」
灰色の瞳が生き生きと輝いた。
「私がもう三十ほど若ければ、自分で行きたいところだわ。
だがセイラン、これはおまえにこそ回したい。
そう思ったのでな、こんな急いでやって来たというわけだ。」
師の話はいつも経過がぶっ飛んでいる。
セイランがよく思うことだ。
頭の中で出来上がってゆく過程をきちんと言葉にはしてくれない。
だから周りにいるものは、よほど想像力を働かせて言葉の真意を理解しなくてはならない。
その作業になれているはずで、しかも直観力や想像力にはかなりの自負を持つセイランではあったが、今度ばかりはお手上げだった。
「先生、もうちょっとわかるように話してください。
僕には何がなんだか。」
藍色の瞳に遠慮がちの苛立ちが浮かんでいた。
「女王府だ。」
何をわかりきったことをと、こちらもいらだたしそうに口にした。
「女王府?」
ますますわからない。
「女王府からお使いがあった。
なんでも次の女王選出試験の教官にと、私に要請があったのだ。」
興奮気味の早口で、師はまくし立てた。
「お偉い女王府からの要請をありがたがる気は毛頭ないが、それでもセイラン!
女王の選出に立ち会えるんだぞ。
しかもあの聖地で。
こんな機会はあるもんじゃない。
見てみたいとは思わんか。
神のような人々が住むという、あの聖地を?」
師がこんなに興奮している様子は珍しい。
だがそれも無理はないとセイランは思った。
確かに滅多にない機会ではある。
聖地の名を知らぬ者はないけれど、その存在を実感している者はまずいない。
普通に生きている者にとって、聖地とはそういう所であった。
そこへ行けるというのである。
しかも次期女王選出試験の教官として。
師でなくとも興奮することだろう。
事実話を聞いていたセイランの胸の動悸も、先刻よりはずっと速くなっていた。
「なにをぼんやりしている?
聞いていなかったのか?
おまえが行くのだぞ?
さっき私は女王府に返事を書いた。
セイラン、おまえが適任だろうとな。」
ようやく話の中身が飲みこめて、驚きと興奮が一気にセイランを支配した。
「僕?
僕が聖地に行くんですか?
いや、行けるのですか?
本当に?」
やっとセイランから満足する反応を引き出せた。
師はにっこりと頷いて、目を細める。
「どうだ?
感謝する気になったか?」
「ええ!
もちろんですよ。
もちろん、先生!」
がたりと音を立てて椅子を蹴倒して立ちあがり、セイランは師の傍に駆け寄った。
しわだらけの手を、みずみずしい両手で包み込んで藍色の瞳いっぱいに感謝の色をあふれさせた。
「ありがとうございます。
先生は僕にたくさんのものをくださったけれど、今度のは特別に嬉しい贈り物でした。
本当にありがとう!」
予想以上の愛弟子の喜びにすっかり満足して師が館を辞去した後。
セイランは一人自室で、これから来る近い未来に胸を弾ませていた。
聖地。
この宇宙を支配する女王のお膝元。
限りなく穏やかで美しいところだと聞く。
その噂が本当であるかどうか、直に行って確かめてやろう。
そこまで思った時に、彼の脳裏をふと何かがかすめた。
……・?
聖地。
女王。
この言葉が彼の記憶を刺激する。
ずっと昔1度だけ見た肖像画。
不機嫌な少女の。
あの時に師は言った。
彼女は今の女王陛下だと。
確か名は・・、ロザリア。
聖地に行けば彼女がいるはずだった。
それに気付いたとき、セイランの形の良い唇から思わず笑いがこぼれていた。
「会える・・とはね。
これだから生きてるって面白いよ。」
セイランが館からいなくなったのはそれから一週間の後であった。
来たとき同様にばたばたと大袈裟に騒ぐわけでもなく、ある朝突然に、気付けばふうっと姿を消していた。
描き損じたのか、くしゃっと丸めて放り出された数枚の鉛筆描きが、セイランが使っていた部屋の床に転がっている。
「やっぱり行ったのね。」
当たって欲しくはない予想ほど当たる。
がらんとした部屋を眺めて女主人はため息をつき、そしてばたんと扉を閉めた。