Shadow~In Perfect Unison~(4)
「セイランさま。」
控えめな声が彼を現実に引き戻した。
午後も三時を過ぎれば、そろそろ緊張感はなくなるものだ。
別の次元の女王候補の育成をする教官職。
その仕事が始まって、早一月が過ぎていた。
毎日のように通ってくる栗色の髪をした素直な少女。
彼女が心配そうな顔をして、こちらをじっと見つめていた。
「ああ、悪い。
君がいたことを忘れていたよ。」
大きなガラス玉のような瞳を見開いて、少女は黙ったままだ。
ち・・と、心中で舌打ちしたい思いがする。
細い眉がわずかに上がり、彼をより神経質そうに見せた。
びくりと少女が脅えたような表情をする。
小さなため息を飲みこんで、セイランは努めて優しげな声音を作った。
「少し考え事をしていたんでね。
僕は時々こうなのさ。
気にすることはないよ。」
途端に少女はほっとしたように微笑む。
「良かった・・。」
「そう?
なにがよかったのかわからないけれど、君が良いと言うんならそうなんだろうね。
今日はこれでおしまいにしよう。
文学史の続きはまた次に。」
専門外の分野であるものも、セイランの講義の対象になっていた。
今まで趣味に任せて読み漁っていたものを、他人に教えるとなればそうもいかず、朝晩準備をしなくてはならない。
これはセイランには計算外のわずらわしさであった。
そして何よりも。
今目の前にいる少女ともう一人。
たった二人の少女と毎日のように、しかもごく身近に接していかなくてはならない。
それもまた、セイランには大いにわずらわしいことだった。
ただでさえ、多感な年頃の少女は苦手だった。
彼自身まだその年頃にあり、そして誰よりもその頃の特徴である気難しさを持ち合わせている身がそれを言うおかしさ。
それを気にもとめていない。
ともかく苦手なのだ。
ほんの少しのことで泣いたり騒いだりする。
彼にしてみればごく自然にしていてさえ、なんどかそういう不具合な場面に遭遇したのだ。
仕事でさえなければ、関わり合いはごめんこうむりたいところだった。
だが受けてしまった仕事である。
聖地を見たい。
その好奇心と引き換えに、彼自身が選んだことであった。
仕方ない。
そう思い、不承不承ではあっても彼は女王候補の少女に必要最小限の気を遣うことにした。
聖地の誰もがそれなりに気を遣っているものを、知らん顔でいつもどおりの扱いをするというわけにもゆくまい。
他人にはどう見えているか知らぬことだが、セイランは彼なりに気を遣っているのだ。
それがストレスになる。
「さあ、君はもう自由の身だ。
ここにいる必要はないだろう?」
これでも優しく言ったつもりであった。
さっさと出ていってくれ。
一人になりたいんだから。
そう言いたいところをできる限り婉曲に表現したつもりなのだけれど…。
だが少女はまたもやびくりと肩を震わせて、脅えたような目を急いで伏せた。
「は・・い。
すみません。」
消えそうな声。
「何を謝るの?」
いらいらした。
声にもそれが出てしまうのを抑えられない。
「君は何かしたのかい?
謝られるようなおぼえはないんだけどね。」
カンの強い藍色の瞳が少女を切りつけた。
大きな瞳がじわりと潤んでゆく。
セイランは目を覆いたい気分だった。
だから嫌なんだ!
どうして泣くのか、このくらいのことで。
「すみ・・ませんでした。」
ようやくそれだけを口にして、少女はくるりと身を翻す。
ばたばたと逃げるようにして、授業用に割り当てられた小さな部屋を出て行った。
「もう!
何だって言うんだ!?
僕が一体何をしたって言うんだい?」
講義用にと持ち込んだ厚い本を、ばたんと乱暴に閉じた。
ひどく気分が悪かった。
外の空気を入れよう。
そう思い、窓辺に立った。
夕刻というにはまだ早い遅い午後。
穏やかな聖地の日差しと温かさが、ゆっくりと彼の苛立ちを取り去ってゆくようだ。
「仕方ない。
これが仕事だからね。
こういうこともあるさ。」
肺を空にするようにして大きく息をついた後、彼は言葉に出してみる。
こうすると、不思議にもやもやは消えるのだ。
そしていつもの彼に戻る。
セイランはイライラを引きずらない。
不快なものは、あっという間にその居場所を失うのだ。
意識の中に長くとどめ置くような、そんな馬鹿なことはしない。
見たいもの、聞きたいもの、感じたいものはいくらでもあり、ばかげた不快な感情にいつまでも付き合うなど、セイランには思いもよらないことだったから。
それにしても…・・。
セイランの意識は、先刻少女に引き戻される以前の世界に戻る。
もう一月も前になるのか。
聖地に着いて初めての夜。
あの夜見たもの。
あれは夢ではなかったはずだ。
窓の下を急ぎ足で通りすぎる青いフードの陰。
白い横顔。
長い髪。
あれは、あれこそは、彼を聖地に惹きつける一番の理由。
あの時セイランはバスローブのまま、急いで外に飛び出したのだ。
だが、彼女の姿はすでにない。
夜の闇がかき消したかのように、気配さえも残ってはいなかった。
以来。
彼は毎晩その時刻に、ベランダに立つ。
必ずまたここを通る。
その一瞬の機会を今度こそ逃すまいと思っていた。
あれが彼の思う通りの女性であることを、彼は疑ってはいなかった。
であれば、彼が彼女に直に会える機会は、こういう非日常の状況でしかありえないということだ。
聖殿奥、謁見の間。
幾重にも垂れこめた薄物の向こうに、わずかに気配を感じることができるだけ。
彼女は女王なのだから。
聖地を、いやこの宇宙のすべてを統べる。
至高の存在。
正規の手順で彼女に直接会えるとは思ってはいない。
セイランにもそのくらいの常識はあった。
だからこそ、なんとしてもその機会を逃したくはない。
今夜も彼は待つつもりであった。
そのためには。
「とりあえず、明日の準備を片付けようか。」
そう。
仕事をしてしまわなければならない。
自室に仕事を持ちかえるのは避けたかった。
あそこは彼の空間である。
野暮なにおいを持ちこみたくはない。
再び机に戻り、セイランは投げ出したままの本を手に取った。
そしてそのまま、意識をそこに集中させていった。