Shadow~In Perfect Unison~(7)

息が凍る。
きんと音のするような冷気が満ち満ちて、それがロザリアの四肢からすべての感覚を失わせていた。
「少し寒いところに行くからね。
そのつもりで。」
あの夜、部屋へ戻ろうとしたロザリアを呼びとめた声。
教官たちの私室に当てられた館のベランダから。
振り仰いだロザリアの前で鮮やかに彼は笑う。
「楽しみにしているからね。」
そしてすぐに姿を消した。
彼女が何かを問う暇もないうちに。
「ね?
厚着をしておいでって僕が言ったの、本当だっただろう?
これでもまだ本格的な冬じゃないらしい。
ひどく寒いけれど、でも僕はここが好きだよ。」
彼の口元から、大きな白いかたまりが空にとけて行く。
風を通さぬ長いベージュのトレンチコートに身を包んだセイランが、あの夜と同じ笑顔で彼女を見つめていた。
「さあ、もう少し。
湖の向こうに、もう見えてるよ。
あそこまで頑張れるね?」
今にも雪がちらついて来そうな空模様だった。
黒い革の手袋をしたセイランの指が指し示す先に、高い塔のある古城。
低く垂れこめた雪雲にとどきそうに見えた。
ぼんやりと眺めていたロザリアが視線を戻すと、セイランはさっさと先に歩き出している。
女性の足の弱さを気遣うことも知らぬらしい。
ロザリアには、そんな彼の子供っぽさが不快ではなかった。
慣れた風に手を差し伸べる男ならいくらでもいたし、それを特別嬉しいとも思わないで来た。
自分の足で歩けるだろ?
彼ならきっとそう言うだろう。 ロザリアにも足があり、そしてそれは自分の意思で動かすことができるものなのだから。
ぼんやりしている間に、先を行くセイランとの距離がどんどん開いていく。
毛皮をあしらった短いブーツは防寒用にと用意したものだったけれど、それでも指先はとうに感覚を失っていた。
こんなところで置いてきぼりになることはできない。
彼女は道を知らないのだ。
所々に薄い氷が張ってつるつるとすべる小道を、ロザリアは用心深くだができるだけ急いで、セイランの後を追い始めた。

背の高い大きな鉄製の門。
手入れが行き届かぬのか、所々さびて赤茶けていたが、いかにも気位の高い門構え。
あたりをなぎ払う威風さえ感じさせる。
「こ・・れ?」
ロザリアが口元を押さえた。
馴染みのある紋章。
忘れるはずもない。
それは彼女の生家の紋章だった。
「君の家、いや正確に言うと別荘の一つだろ?
知らなかったのかい?」
ロザリアが驚いた。
そのことがセイランには嬉しいらしい。
唇の端を上げて、悪戯っぽい笑いを浮かべる。
「聖地から抜け出すって僕が言った時、君はぐずぐずとしぶったけどさ。
どう?
来た甲斐、ありそうに思えてきただろ?」
なぜロザリアも知らぬこの別荘の存在を、セイランが知っているのか。
もともと多くを語らぬセイランが、いっそう謎めいて見えた。
なぜ?
問いかけようとした時、セイランはするりと身をかわす。
「さ、入るよ。」
重い鉄製の門を押し開けた。
「え…?」
カタルヘナ家の別荘ならば、そんなに簡単に中へ入れるはずはない。
うち捨てられた辺境の別荘であったとしても、厳重に戸締りがなされ、関係のないものがふらりと進入できるとはとても考えられなかった。
だが、彼女の目の前で門はたやすく開いた。
何年も使われていないのか、かなり重い軋みを上げはしたがそれでも。
「何をしてるんだい?
凍えてしまいたいのかい?」
またもやずっと先を行くセイランが振り返る。
その声にせかされて、ロザリアはわけのわからぬまま門をくぐった。

城の中へ入るとすぐに、セイランはどこからか手燭を用意してきてそれに灯をともした。
「行くよ。」
それ以上の説明をしない。
また先を歩く。
ロザリアはついていくしかない。
こつこつとセイランの靴音が響く。
長い長い廊下。
彼の持つ手燭の弱い灯りだけが、ぼんやりと温かい。
「さあ、着いた。」
そう声をかけられて、ロザリアはようやく足を止めた。
広い部屋。
薄暗がりで何も見えない。
セイランが手燭の灯りをあちこちの燭台に移して行く。
ぼんやりと広がるオレンジ色の光。
それにつれて、ロザリアの視界も明るくなる。
息を飲む。
「これ…。」
壁にかかる肖像画。
幾枚もの。
そしてその中にある一枚。
憶えがあった。
「これはわたくし…。」
聖地に上がる前、彼女の両親が高名な絵師に描かせたものだった。
普段着で良い。
確かそんなことを言われて、何時間もじっとそのモデルをつとめた記憶があった。
でもどうして。
どうしてそれがこんなところにあるのだろう。
そしてセイランがそれを知っているのだろうか。
聞きたいことが多すぎた。
ごちゃごちゃの頭の中を整理できぬまま、彼女は振り向いた。
その先で、すっかり思い通りだと満足した藍色の瞳が、愉快そうに笑っていた。
「いろいろ聞くのは後にしてくれないか?
僕と君にはあまり時間がないんだからね。
まず、僕にはやらなきゃならないことがある。
約束。
忘れてやしないからさ。」
軽く肩をすくめてから、彼はあたりを見まわした。
そしてふっと頬を緩める。
「あった。」
何があったのか?
ロザリアが聞くより早く、セイランは部屋の隅に向う。
積み上げられた乾いた薪。
その傍に真新しいスケッチブックとバスケットが置かれていた。
「へえ。
コーヒーの用意もしてくれてる。
先生、気を回したな。」
何を言っているのだろう?
ロザリアにはわからないことだらけだった。
「悪いけど、この薪を暖炉にくべてくれないか?
君もコート脱ぎたいだろ?
僕はやることがあるからね、しばらく放っておいて欲しいんだ。
ここにコーヒーとサンドウィッチがあるみたいだから、部屋を暖めて一人で先に食べているといいよ。」
セイランの意識は既にロザリアから離れているように見えた。
大きな窓枠にひょいと腰掛けて、手にしたスケッチブックをじっと眺めている。
部屋の中で一番大きな銀の燭台がその手元を照らす。
目を閉じてしばらくじっとしていたセイランが、大きく息を一つして鉛筆を動かし始めた。
もう声をかけることはできない。
ロザリアにもそれは感じられた。
だが一人放り出されて、彼女にはとりあえずやることもない。
言われたとおり薪を運んだ。
薪に火をつけるのは案外難しくて何度かの失敗の後、乾いた紙に火をつけてそれから薪に火を移す。
勢いよく炎が上がり、ぱちぱちと乾いた音がはぜる。
さらさらさら………。
セイランが鉛筆を走らせる音がそれに混じる。
さらさら・・。
気分が静まって行くのがわかる。
吐く息吸う息、その呼吸さえもセイランのそれと同化しているような。
邪魔な音はない。
オレンジ色の温かい炎の色がセイランの端正な横顔を染める。
片膝を立ててその上にスケッチブックをのせて、セイランは一心不乱に鉛筆を動かしていた。
時々思い出したように髪をかきあげる。
ロザリアはその様子をただじっと見詰めていた。
今まで経験したこともない優しい気分でいる自分に、内心驚きながら。