Shadow~In Perfect Unison~(8)

「いいだろう、これで。」
目を上げると、彼女がそこにいた。
身動き一つせず、ずっとこうしていたのか。
気配がしなかった。
彼の気を散らせる物音一つさせないで、ずっと?
濃い青の瞳がようやく笑った。
「終わりましたの?」
ふわりと温かくなる。
忘れていた体温が戻ってきたような。
心の芯がゆっくりとほぐれてゆく。
つられてセイランも微笑んでいた。
「ああ、終わったよ。」
「見せていただけるのでしょう?」
床にぺたりと座り込んだままで、ロザリアが問いかける。
返事の代りに、セイランは窓枠からひょいと飛び降りた。
つかつかと彼女の傍による。
目の前にスケッチブックを突きつけた。
彼女の視線はまだ彼に注がれている。
「どうしたの?
約束、君が望んだことだよ。」
見て欲しいのは自分の姿ではない。
たった今出来上がったばかりのもの。
スケッチブックの中にこそ、彼の言葉は存在している。
「ご覧よ。」
さらに促した。
ロザリアの視線がそれに落ちる。
レースの飾りのついた袖口からのぞいた白い手が、こわごわとセイランの腕から大きなスケッチブックを受け取った。
ぱちぱちと薪のはぜる音。
いつのまにかけたのか、コーヒーのポットがその上でしゅんしゅんと白い湯気を上げていた。
粗末な青いホーローの蓋が、蒸気にあおられてかたかたと小刻みに鳴る。
セイランはじっと見つめる。
ロザリアを。
今まで他人のために描いた事などなかった彼が、初めて描きたいと思った。
どんな反応で迎えてくれるか。
息を詰めて見守る。
「違うわ…。」
小さな声。
「え?」
「お父様とお母様はこんなじゃない。
こんなに仲良く寄り添って、絵を見たりはなさならない…。」

一瞬その反応にカッとする。
僕が描いた物に不満があるなんて!
一流と呼ばれた絵師としてのプライドが、セイランの白い頬に血を上らせた。
だが。
スケッチブックをひったくろうと手を伸ばした時。
怒りが消えた。
視線がぶつかる。
頼りなく震えるような青い瞳。
藍色の瞳にまず驚愕が、続いて優しさが広がる。
「じゃ、どうして君はそんな顔をしてるんだい?
それが君の両親と似ても似つかぬものなら、どうして?」
「わからない。
でももしかしたら、わたくしが知らないだけかもしれないと思えるから。
わたくしが聖地に行った後、もしかしたら…。
違うのに、どうして?
わたくしが知る両親は、けっしてこんなことはなさらないのに、どうしてこんな気持ちになるの?
ねえ、どうしてかしら?」
暖炉の火の照り返し。
彼女の片側の頬がオレンジ色に染まる。
泣き出しそうな青い瞳。
セイランはにっこりと笑った。
「それが真実だからさ。」
「真実?
だってお父様は・・。」
抗議の声を上げたロザリアの言葉をセイランの指が塞ぐ。
「君は両親のすべてを知ってるのかい?
彼らだって君と同じ人間なんだよ。
いろんな表情をもってるのさ。
君の知ってる表情も真実。
そして多分、僕が見せたそいつも真実の一部。
だから君はそんな気分になるのさ。」
ロザリアは再び視線を落とす。
そこに描かれているのは一組の男女。
壁にかけられた肖像画を愛しげな眼差しで見つめる。
寄り添ってどこか悲しげに。
背の高い男は彼女の父。
そして薄いモスリンのドレスは彼女の母だった。
「お母さま…。」
ロザリアの指が母のドレスをなぞる。
確かに母は、こんなドレスを持っていた。
「そうなの?
わたくしが知らないだけなの?」
「そうさ。
思いこみや決め付けは自分を不幸にするだけで、ちっとも楽しいものじゃない。
少なくとも僕は、そう思うけどね。」
セイランは表情も変えずにさらりと受け流し、暖炉の傍に歩み寄る。
「冷えてきたね。
コーヒー淹れようか?」
左手にカップを持ち、ぐらぐらに煮えたぎったコーヒーを用心深く注ぐ。
「君も?」
煮詰まってとても飲めたものではないはずだったが、セイランは気にする風でもない。
もう一つのカップに同じように注ぐと、ロザリアにそれを差し出した。
どろどろになった黒い液体から上がる苦そうな湯気が、ロザリアの嗅覚を刺激する。
眉をしかめて顔を背けた。
「無理にとは言わないけれどね。
身体温めておいた方が良いと思うんだけど、まあご自由に。」
肩をすくめてセイランは、飲み口までも熱くなったカップにそろりと唇をつける。
「つ・・さすがに熱いな。」
顔をしかめて、それからふうふうと息を吹きつける。
唇を尖らせた子供っぽいしぐさがロザリアの笑いを誘った。
「なにさ?」
憮然とした表情。
セイランにも彼女の笑いの理由がわかっていたから。
「しかたないだろ?
熱いものは熱いんだから。」
不機嫌にぷいと顔を背けた。
先ほどまでの余裕のかけらさえもない。
「窓辺においておくとよろしいわ。
きっとすぐに冷めるから。」
ロザリアは立ちあがり、セイランの前に手を差し出した。
「さあ。」
母親に諭される子供がよくする反発。
セイランの藍色の瞳にはそれが浮かんでいる。
だが子供は結局母親に逆らえないものだ。
ふてくされたように、セイランもカップを突き出した。
窓辺に二つのカップが並んだ。
湯気が、凍りついた窓をたちまち曇らせる。
「ぬるいのはごめんだからね。」
まだ憎まれ口をきくのか。
ついにロザリアは声を上げて笑った。
「ごめんなさい。
でもとまらないのよ。」
息をするのも苦しそうな彼女の声。
ふいに途切れる。

「憎らしいね、君は。」
塞いだ唇をようやく離してセイランがささやく。
言葉もなくただ見開かれた青い瞳。
「僕が嫌いかい?」
答えを必要としていない問い。
自信にあふれた高慢な藍色の瞳が光る。
引き寄せた腕の力は強かった。
そのままもう1度、セイランは唇を重ねた。