夜曲(10)

 ひゅるりと冷たい風が吹き抜ける。
 ふるりと小さく身震いをして、ロザリアはバルコニーへ続く窓を閉めた。
 ガラス越しの木々の葉は、いつの間にかすっかり色づいて、その向こうに広がる海も、夏の穏やかな顔を消している。
 弱い日差しの下、繰り返し繰り返し打ち寄せる波は高く、荒々しい。
 夏が終わり、秋が来て、それでもロザリアはここにいた。
 立ち去るつもりはない。

「夏が終わりますよ。もう良いでしょう。
貴女は十分待った。もう、お帰りなさい」

 あきらめるようにと、何度もすすめたあの青年、銀の髪をした彼は、あの夜以来一度も姿を見せなかった。
 呆れてしまったかと、ロザリアは苦笑する。
 彼が思うよりずっと、自分は強情だったから。
 訪れる人もない夜をいくつも重ねてなお、あきらめる気にはならなかった。
 あの夜、リュミエールは最後まで「もうお帰りなさい」とは言わなかった。ここにいて欲しいとも言わなかったが、ロザリアにはわかる。リュミエールには、ロザリアを手放すつもりなどない。たとえその身は獣の姿をとろうとも、それを理由に彼女を他の誰かに譲るつもりなど、毛頭ないのだと。
 一緒にいることはできないと言いながら、それでも手放す気はないと。

「勝手な方ね、リュミエール」

 優しげな外見にとても似合わぬ我がままであったけれど、ロザリアはけして嫌ではない。
 むしろ嬉しい。どうにもならない思いを抱えて、悶々としているだろう恋人を思う時、確かに愛されていると、ロザリアには感じられて、それが彼女をこのうえもなく幸せにする。

「リュミエールのことばかり言えませんわね。わたくしも……。
わたくしも、やはり勝手ですわ」

 恋人の苦悩を知って、それを悲しむどころか幸せだと思う。残酷なエゴイズムでなくて、何であろう。
 とりあえず確かなことは、リュミエール、ロザリア二人にとって、他人が彼らをどのように評価するかなど、まるでどうでも良いということだった。
 不幸だと憐れまれることも、世の理に逆らうことだと蔑まれることも、気にはならない。
 もともと二人が出会った聖地そのものが、そもそも常の人の理からは遠く離れた場所にあり、そこでのことはすべて、並の人々にはわかるまい。
 そこで始まった恋が、並の恋でなかったからといって、何を今更驚くことがあるだろう。
 狼に変化した恋人も、それを変わらず愛しいと思う自分も、別に不思議なことではない。
 ただひたすらにリュミエールを待ち続けた日々を思えば、理由の知れただけ、今はマシであった。
 人の姿にこだわりさえしなければ、いつでも彼はロザリアの傍にある。
 リュミエール自身は、頑なに狼の姿では会わぬと言い張ってはいたが、その言葉の頼りなさをロザリアはよく知っていた。
 会いに来ぬわけがない。それは確信であった。同じ立場に彼女があったなら、きっとそうするだろうと思うから。
 早い秋の落日が、たちまちにしてあたりを薄闇に変える宵、再びバルコニーの窓を開いてロザリアは口にする。

「いつまで強情をはるおつもりですの?」

 

 とっぷりと日の暮れた後、長い秋の夜が始まった。
 熱い珈琲を淹れた部屋は、薫り高い香気に染められて、ソファに身体を沈めたロザリアはひと時ほっと息をつく。
 風が窓を鳴らす。
 カタカタと小刻みに。
 木枯らしにはまだ少し早いだろうに、今夜の風はやけに煩い。
 カタリと、少しばかり大きな音がして、窓の開く気配があった。
 ふ……と、ロザリアの唇の端がわずかに上がる。
 ひたひたと足音が近づいて、それでもロザリアは顔を上げなかった。
 どう言い訳したものか、聞いてやろうと意地悪く微笑したまま。
 けれど近くなる足音に、ロザリアは眉を寄せた。
 おかしい。
 これは確かに人の足音。狼のものではない。

「誰?」

 はっと顔を上げると、しばらくふっつりと顔を見せなくなっていた、銀の髪の青年の姿がある。

「あ……なた……? どうして?」

 呆然として見上げる蒼い瞳を、色素の薄い水色の瞳が見下ろした。

「あなたに、会いたいそうだ」

 短くそれだけ、放り投げるように告げた。
 誰がとは聞かない。
 聞くまでもない。
 けれどわからないのは、なぜ彼が来たのか。
 すべて明らかになった上は、今更遣いを立てる必要もないだろうに。
 怪訝な顔のロザリアに、青年は相変わらずの無表情で答える。

「別れを、あなたに言いたいんだそうですよ。会ってあなたに、ヤツの口からね」

 別れ。
 青年の口にした言葉の意味を理解するのに、少しの間を必要とした。

「わ……かれ?」

 掠れた声が、オウムのように青年の言葉を繰り返す。
 凍りついたような表情で見上げるロザリアを、冷めた水色の瞳がさらに追い詰める。

「で? どうしますか?
来るのか、来ないのか?
今来なければ、あなたはヤツには会えませんよ。
もうこの先、どれだけ待っても今度こそ」

 心臓の音が聞こえる。
 トクントクン、破裂してしまうのではないかと思うほど速く、大きく。
 目を閉じて、ゆっくりと息を吐いて、吸った。
 僅かの間、なんとか息を整えたロザリアは、すいと立ち上がる。
 間近に水色の瞳をしっかりと捉えて、そして言った。

「まいりますわ。連れて行って、わたくしを。
リュミエールのところへ」