夜曲(11)

 潮の香りのする風が、頬を撫でてゆく。
 もうすっかり肌寒い季節になっているというのに、まるでロザリアを守るように、風は温かく優しい。
 銀の髪の青年に導かれ、黙って従うのはこれで二度目であった。
 違うのは向かう先。
 どうやら海辺に向かうらしい彼に、ロザリアは何も聞かない。
 銀の月は中天にあった。
 銀の狼に許されたつかの間の時間である。
 人の姿は失えど、人であった時と少しも変わらぬ心をもったリュミエールに、きっと会えるとロザリアは予感する。
 いつのまにか浜辺に出たらしい。
 ヒールの靴底が、頼りなく沈む。
 さらさらと肌理の細かい白い砂に足をとられて、ためらわずロザリアは靴を脱いだ。
 素足に乾いた砂が、ひんやりと冷たかった。
 ざ……、先を行く青年が足を止める。

「相変わらずですね。ことここに到って、まだ覚悟が決まりませんか。
往生際の悪い」

 ため息まじりの低い声が、波音に混じる。

「さあ、覚悟なさったのでしょう? 見苦しい真似は、およしください」

 誰に向けた言葉か、ロザリアにもわかった。
 こうして彼女をよびだしておきながら、それでもまだぐずぐずと隠れているらしい子供っぽさに、口元に優しい微笑が浮かぶ。
 ふ……と、波音が消えた。
 銀の月の下、幾度も繰り返し打ち寄せた波が、その動きを止めている。
 白い波の飛沫さえ、宙に砕けとんだそのままで止まっている。
 声が響く。

「さんざんな言われようですね」

 波間を縫うように響く声は、冷たい笑いを含んで、声の主が静かに怒っていることを、二人に伝えた。

「リュミエール、どこにおいでになりますの?」

 恋人の怒りなど後でなんとでもする。とにかく今は、一刻も早くその姿を確かめたい。
 ロザリアは止まったままの波打ち際に、足を進めた。
 さらに深みへと身を乗り出そうとすると、その直前の海面がふわりと光を放つ。
 頼りなくぼうとした光に、ロザリアは目を凝らす。
 光の中に人の姿をみつけて、息を飲み、次の瞬間迷わず光に飛び込んだ。

「リュミエール!」

 途端、鞘が外れるように光は消えた。
 銀青色の長い髪、水色の瞳の青年が、しっかりとロザリアを抱きしめる。
 愛しげに頬を寄せて、恋人の名を呼んだ。

「愛しい、ロザリア。わたくしのロザリア」

 夜のしじまを震わせる声は、甘く切なく、辺りに響く。

「お別れを申し上げねばなりません」

 同じ声がもう一度、辺りの大気を揺らした時、ロザリアは驚かなかった。
 こうして人の姿をとったリュミエールのまとう光こそ、海神の加護の証。
 既に人の姿を保つ力を失った彼に、海神が加護を与えたとすれば、それは何かを差し出したからに違いない。
 差し出したものは、おそらく……。

「嫌だと申しましたら? そうしたらあなたはどうなさるの?」

 静かな、穏やかな蒼い視線が、その先にリュミエールの瞳を捉えていた。

ロザリア、わかっておいででしょう? それができることか、そうでないかなど」

 動揺したのは、リュミエールだった。
 傍にいられるものならば、どうしてそうしないでいるだろうか。
 狼の姿のまま、ロザリアをこの先ずっと見守り続けるだけなどと。
 それでも良いと思えるほど、自分は清らかな男ではない。
 誰よりもリュミエール自身が知っている。
 触れたい。
 艶やかな髪に、滑らかなその頬に、あまやかな唇に。
 陶器のようにひんやりと冷たい、彼女の白い肌に。
 その望は、彼を本物の狼に変えてしまうだろう。
 海神の望むまま、美しい乙女を奪い差し出し、里の人々を襲い、そして日々の糧に獣を食らう。
 生臭い獣の血で穢れた唇を、ロザリアはいつか疎ましく思うようになるだろう。
 長い年月、穢れた血の臭みに吐き気を抑えながら、ただロザリアに会うためだけに、リュミエールはそうして永らえた。
 ロザリアには、今はまだわかるまい。
 けれどいつか気づく。
 血に穢れた生臭い唇に、立ち上る獣の臭いに、ロザリアは気づく。
 その時を思うと、全身の血が凍りつくようだった。
 だから決めた。
 去ろうと。
 今は、去る。
 けれどそれは、再び会うための別れ。
 この先数百年の魂の自由と引き換えに、その契約果てた後の転生を、海神と交わした。
 けれどこうしてロザリアを目の前にすれば、たちまちにして崩れそうになる決意に、リュミエールの心は揺れる。

「どうかロザリア。わたくしを困らせないでください」

 震える腕が、さらに強くロザリアを抱き寄せる。

「こうするしかないのです。今のわたくしには」

 まるで泣いているように見える微笑が、ロザリアを包む。

「もう一度、わたくしは貴女にお願いしなければなりませんね。
どうか……わたくしを待っていてください。
どれほどの年月が必要であっても、わたくしは必ず、貴女を探し出してお迎えにあがります。
だからどうか」

 固く結ばれたロザリアの赤い唇が、ゆっくりと開いた。

「嫌ですわ」
「ロザリア! これほどお願いしても、まだわかっていただけないのですか?」

 細い両腕を掴んだ力は強く、突然の痛みにロザリアは眉を顰める。
 それでも気丈な蒼い視線は、揺るぎもせず薄情な恋人をしっかりと捉えたまま。

「前にも申し上げましたわ。リュミエール、あなた一人で何もかもを決めておしまいになる。
ではわたくしは? わたくしはどうなりますの?
海神の元へ上がるなら、それもよろしいでしょう。
でもあなた一人でなんて、許せませんわ。わたくしも参ります」

 不思議な感情がリュミエールを支配する。
 困ると思いつつ、胸の奥から湧き上がる歓喜が身体中を駆け巡っていた。
 何よりも愛しいロザリア。その存在こそが、リュミエールの生きる意味。ロザリアにとっての自分も、同じなのだと知らされて、胸の震えを抑えようもない。
 けれど、だからこそ、リュミエールは去らなければならない。
 一時の歓喜で、その先の恋を汚さぬように。
 彼にだけは見えている、その先の恐ろしい未来を招かぬために。
 唇を噛んで、リュミエールは首を振った。

「ロザリア、聞き分けてください。誰であろうと、あなたを他の男の元へ置くわけにはまいりません。
わたくしは、とても嫉妬深いのですよ。
とうに……ご存知だと思っておりましたが」

 優しげな微笑に、ロザリアは悟った。
 儚げな優しげな、この顔をしたリュミエールに、翻意を促すことは難しい。
 それでも逆らわずにはいられない。
 離れたくない。その思いが口をついた。

「リュミエー……!」

 恋人の名は、最後まで音にはならない。
 優しい唇が、彼女の声を奪った。ふわりと、身体が宙に浮く。
 唇を離さぬまま、リュミエールはしっかりと恋人の身体を抱き上げていた。
 わずかに離した唇の間に、囁く甘い声。

「貴女はわたくしのものだと……。貴女に覚えておいていただかなくては。
今度は少し長くなりそうですからね。その間、けして貴女がお忘れにならぬように」

 受け容れられぬ別れと愛しさに、乱れたままのロザリアをもう一度抱きなおして、リュミエールは白い岩屋へ足を向けた。
 ただ一夜、これを最後と、海神がリュミエールに与えた機会である。
 さらさらと冷たい砂を踏みしめて、銀色の月の光に白く輝く岩屋へ向かう。
 入り口に、銀の髪の青年が立つ。
 優雅に腰を折った最敬礼の彼の前で、やや歩を緩めた。

「後は……おわかりですね?」

 一瞥すら与えず、その前を過ぎる。
 凛然たる声は、まさに銀の狼の首領のもので、青年は形の良い薄い唇の端で苦笑した。
 彼らの王、銀の狼を惑わせるのは、この世にただ一人。今、その腕にある美しい女一人だけである。
 彼ら二人の気配が、岩屋の奥にすっぽりと飲み込まれると、銀の月の光だけがようやく動きを取り戻す。
 煌くような銀の粉が、まるで霧雨のように辺りに降り注ぐ。
 波の音、風の音は止んだまま。
 しゃらしゃらと光の粒子の雨が降る。
 青年はようやく顔を上げ、岩屋の入り口に背を向けた。

「さすが…と申し上げましょう。父上」

 その夜の務め、これが最後となるだろう、首領の代わりを務めるために、青年は海を後にした。