夜曲(12)

 空と海との際が白み、ついでばら色が続く。
 ひんやりと湿った朝の空気が、岩屋にこもるリュミエールに別れの時を知らせた。
 しっかりと腕に抱いた愛しいロザリアを、もう一度抱きなおす。
 艶のある長い髪に顔を埋めて、苦しげに告げた。

「お別れです。愛しいロザリア」

 今しがたまで、リュミエールの情熱を受け止めていた肌は、あちこちにその名残を生々しく残している。
蒼い瞳にまだその余韻を残したまま、ロザリアは低い声で言った。

「ひどい方だわ、リュミエール。この先、わたくしにあなたなしで過ごせと、そうおっしゃるのね」

 ついて来いと、そう言われた方が嬉しかった。そこがどんなにひどい所であろうとも、ただ傍にリュミエールがいる。それだけで、他の何もかもを耐えられる。
 けれどリュミエールは頑としてそれを許さない。
 昨夜、愛しげに彼女の名を呼びながら、何度も何度も愛を誓ったリュミエールに、「いっそ連れて行って」とどんなに頼んでも、苦しげに首を振るばかり。
 暁の薄い明るみを恨めしく思う。じきにどうしようもない別れが来る。
 それまでのほんの短い間、どんなに泣いてすがっても、きっと彼は首を振り続けるのだろう。
 かといって、すっぱりあきらめて笑うなど、とうていできそうもない。
 だからせめてもの意趣返し、意地悪を口にした。

「ではリュミエール、貴方も許してくださるわね?
寂しさに耐えかねたわたくしが、誰か他の方を愛したとしても、仕方のないことでしょう?」

 ふ……と、リュミエールが笑った気配に、顔を上げる。
 確かに笑っていた。

「どうぞ……。貴女が本当にそうお望みであるのなら」

 薄い唇の端を少しばかり上げて、この上もなく優しげに。

「無粋は承知の上ですがね、そろそろお出ましいただけませんか?」

 岩屋の入り口辺りから、二人を呼ぶ声がした。

「時間がありませんよ。もう約束の刻限です」

 ち……と軽い舌打ちをしたリュミエールが、厳しい表情で顔を上げた。
 ロザリアを抱いた腕を解き、薄物の衣服を取り上げるとふわりと羽織る。
 すいと立ち上がり、しゅるりと音をたてて細い帯を結んだ。

「ロザリア……」

 見下ろす水色の瞳には、先ほどまでの余裕の微笑はかけらも残っていない。
 未練と焦燥が混じり合って、まるで怒っているように見える。

「行かねばなりません」

 それは彼女にというよりも、むしろ自分自身に言い聞かせているように、強い調子で言った。

「貴女はどうぞ、このままここに。どうかおいでにならないでください」

 去り際の彼を見送るなと言う。ここでこのまま、別れろと。

「リュミエール!」

 抗議の声を上げたロザリアに、厳しい声で重ねて告げた。

「ロザリア、どうかお願いです。貴女のお姿を見ながら、あちらへ行くことなど……。
わたくしにはとてもできません。
けして、わたくしを追ってはこないでください」

 どこまで身勝手な恋人だろう。
 最後の別れも許してはくれない。
 それでも恋しい。
 忘れることなどできるはずもない。
 それを知った上での恋人の傲慢に、ロザリアは唇を噛んで顔を背けた。

「好きになさるとよろしいわ。追ってなんか……、誰が行くものですか」

 何か言って。なんでも良いから。
 顔を背けたまま待ったけれど、ついに声はかからず、その代わりに空気がふわりと動いた。
 馴染んだ恋人の香りが、遠くなる。
 だんだんに、少しづつ。
 追うものか、追ってなどやるものですか。
 唇をかんで耐えて、耐えて、ついにロザリアは立ち上がる。
 駆け出して叫んだ。

「リュミエール!」

 

 暁のばら色に染まる海。
 波打ち際で背を向けたリュミエールが、振り向かぬまま鋭い声で止める。

「いけません、ロザリア」

 それでも追いすがろうとするロザリアの身体を、銀色の髪の青年が抱きとめた。

「放して!」

 激しく抗う彼女の身体を抱きしめる腕の力は驚くほど強く、身動きひとつ自由にはならない。

「放して、お願いだから」

 泣いてすがるロザリアの声に、背を向けたままだったリュミエールが振り向いた。
 しっかりと抱きとめられた彼女に、泣いているように見える微笑を与えて、次の瞬間。
 瞬時に険しい表情に変わる。

「今だけ、許しましょう。けれどわたくしが去った後、二度は許しませんよ。
ロザリアに、あなたが触れてよいのは、今、この時だけ。
よろしいですね?」

 それまで無言を守った青年の唇から、苦笑が漏れた。

「こんな時に、悋気もないでしょうに。あなたらしいですね、父上」

 父上?
 その言葉に、ロザリアが反応する。
 青年の顔を見上げて、見比べるようにリュミエールの顔に視線を移す。

「父上?」

 ロザリアの視線に、リュミエールはふいっと顔を逸らした。

「要らぬことを……」

 忌々しげに小さく吐き捨てると、いかにも不承不承、言いたくはないのだといった風に続ける。

「海神とのこれも契約のひとつでしたから」

 見比べてみると、よくわかる。確かに青年は、どことなくリュミエールに似ているのだ。
 リュミエールに子があるなどと、まるで思いの他だったから、気づくのが遅くなった。
 もっと早くに気づいても、おかしくはなかったのに。

「リュミエールの子でしたのね?」

 微かに笑ってロザリアが言うと、憮然とした表情でリュミエールは答えた。

「ええ、そうです。わたくしの本意ではありませんでしたけれど……」

 本人を目の前にして、酷いことを言っているのだが、言われた子、青年の方ではまるで気にもしていない様子で、先刻浮かべた苦笑の色をさらに深くする。

「隠したままでおこうとは、虫が良すぎますよ。事実は事実ですからね」

 皮肉な言い草は、リュミエールにというよりも、むしろかつて彼の同僚であった赤毛の青年に似ている。
 昔、リュミエールが聖地にあった頃、彼ら二人はよくこんな会話をして、火花を散らしていたものだ。
 遠い昔、懐かしい時間を思い出して、ロザリアはくすりと笑った。
 実の息子が、かつての恋仇に似ているとは。
 リュミエールの心中の複雑さを思いやりながらも、笑わずにはいられない。
 それに気づいたのだろう。リュミエールは心底忌々しげな声で言った。

「海神もよくよく意地悪なことをなさいます。まるであの男のような言い草を……。
思い出したくもないというのに」

 今度こそ、ロザリアは声を上げて笑った。
 時間が戻ったようだった。穏やかで幸せな、遠い日の時間に。
 何も変わってはいないと、笑いながらロザリアは思った。
 時間は流れ、姿は変わろうと、リュミエールはあの頃のまま。そしてロザリアもまた。
 ならば待てる。
 この先どれほどの時間が過ぎようと、いつか二人がもう一度会える時、変わらぬままのリュミエールとロザリアできっと会えるだろうから。

「待っていて差し上げますわ」

 笑うことなどできないと思っていたのに、ロザリアの口元には微笑が浮かんでいた。
 青年の腕をそっと押しやって、波打ち際のリュミエールの傍へ進む。指を伸ばしてその頬に触れた。

「いってらっしゃい、リュミエール。
今度はわたくしが、待っていて差し上げますわ」

 何よりもリュミエールが愛した、深い蒼の瞳が笑っている。
 目を見開いて、リュミエールはそれを見つめ、自分の頬に触れた白い指に唇を押し当てた。

「ロザリア……。ああ、本当ですね?愛しいロザリア、約束ですよ?」

 かつて交わした約束を再び口にして、リュミエールは震える腕でロザリアを抱きしめる。
 海と空の際、既に朝の陽は昇りかけ、リュミエールに許された時間の終わりを告げている。
 急かされるように、唇を重ねた。
 その頬を朝の陽が赤く染めて、ようやく彼は唇を離す。

「必ず、またお目にかかりますよ。ですからロザリア……。
どうぞそれまで、わたくしだけを待っていてくださいね」

 尽きぬ名残に、未練がましい声で囁くと、ひとつ大きく息をして、リュミエールはロザリアの身体を離した。
 そしてゆっくりと海へ向かう。
 ばら色の波が、幾重にも押し寄せて、リュミエールの身体をさらって消した。
 途端、明るい朝の陽が、辺りを優しい白色に染める。
 潮の香り、波の声。
 昨日までと何も変わらぬその光景に、ロザリアは眩しげに目を細めて微笑した。

 

「さて、俺もそろそろ限界です。戻らなくては」

 いつのまに傍に来たのか、気配さえも感じさせなかった。
 視線を上げた先に、まばゆい銀の髪をした青年の淡い水色の瞳があった。
 彼がリュミエールの子であれば、その本性はやはり狼。それも海神の眷属たる、銀の狼に違いない。
 夜が明ければ、人の姿を保つことはできないだろう。

「ええ、そうですわね。あなたには本当にお世話になりましたわ。
ありがとう」

 もう二度と会うことはないだろう彼に、心からの礼を言う。
 すると青年はふっと、美しい口元を歪ませて笑った。

「またお目にかかりますよ。今夜にでもね。
貴方の無聊をお慰めするのは、俺にとって嫌なことじゃない」

 何を言い出すのかと、呆気にとられたロザリアに、彼はもう一度鮮やかに笑って見せる。

「ではまた」

 一陣の風がさぁっと通り過ぎ、巻き上がる砂塵にロザリアは目を閉じた。
 再び彼女が目を開くと、既に彼の姿はどこにもなく、気配ひとつ残さずに綺麗に消えていた。

「呆れた……」

 思わず笑いがこぼれた。
 リュミエールと彼の間が、どのようであったかなどロザリアは知らない。
 けれど仮にも父と呼ぶ人が、身を切られるような別れをすませて海へ入ったのは、たった今のことではないか。
 その直後に。
 ざざ……ん。
 海の面が、荒れている。
 大きな音をあげて、激しい波がいくつか、ロザリアの足元に押し寄せた。

「わかっていますわ、リュミエール」

 両の手に白い波飛沫をすくって、ロザリアは微笑んだ。
 そして海へ背を向ける。
 館への道を戻った。
 振り向かず、しっかりとした足取りで。
 波音がその背を追いかける。
 幾度も幾度も。
 飽きることなく。