夜曲(2)
浅い春の午後、日差しはまだ弱い。
海から吹く風は、まだ冬の名残をたっぷりと残して、冷たく尖っていた。
身震いをして、ロザリアはコートの襟元をかき合わせる。
黒い革の手袋をした手首を、片方の手でしっかりと握り締め、凍りつきそうな睫毛を何度か上下させた。
車泊まりに置いた地上車は使わない。
歩いてゆくつもりだった。
館の裏手に、海を臨む小高い丘がある。
「みんなそこで眠るのですよ。時が来たら、そうして愛しい家族の元で。
わたくしの故郷の、それが習いなのです」
穏やかな優しい声で、恋人は教えてくれた。
「いつかわたくしも、そこに帰ります。海を見下ろす、美しいあの場所へ」
幸せの最中にあった頃、時折彼はそんな風に言っては、ロザリアを怒らせた。
時間の流れの違う人の世に、先に下りるのはどちらかなど、その時の二人にはわからなかったけれど、それでもその時が同時に来ないことだけは確かであった。
いつか必ず来る別れ。
二度と再び生きて会うことは叶わぬ残酷な別れを、二人共に十分承知していた。
だから恐れた。その日が来ることを。
そして願う。その日が一日でも遅く来てくれることを。
それなのに恋人は、時折口にする。
いつか彼が眠るであろう墓所のことを。
まるでそうなることを見通してでもいるように。
「わたくしはそこでお待ちしますよ」
そう言っているように。
時が過ぎ、ロザリアは今、かつて恋人が口にした墓所への道をたどる。
たいしてきつい勾配ではない上り坂に、重い足を引きずりながら。
「まぁ……」
丘の頂上に着いたロザリアは、思わず感嘆の声を上げていた。
見晴るかす海の原。
空の色に同化した海面は、早春の弱い日差しにきらきらと煌いて、穏やかにしぶきを上げている。
時折舞い降りる白い花びらは、まるで名残の雪のようで、今は安らかに眠る人々の地、静寂のそこを飾る唯一の色彩り。
清らかで儚く、もの哀しく見えた。
山歩き用に整えた、低いヒールの靴で、ロザリアは墓所の中央へと進む。
ずらりと並ぶ白い墓石の中ほどに、ひときわ白く美しい石段があった。
わずか数段とはいえ、他の墓所から高見にある石碑には、流麗な飾り文字で、「海神に嘉された一族」、そう記されている。
その下に小さな文字で、一族らしい人々の名が続く。
生誕の年、没年が、それぞれの名の後に。
手袋をした指で、ロザリアはその名を一つ一つ追った。
いくつかの名の後、石碑の文字の上にロザリアの指は止まった。
愛しげに幾度か、文字の上を指が行き来して、「リュミエール」、小さな声で文字を音にする。
冷たい石に刻まれた名であってさえ、愛しかった。
それは他ならぬ、彼女の愛した男の名であったから。
命のある限り、彼女を待ち続けると言ってくれた、優しい水色の瞳をした恋人の名。
「リュミエール、わたくし、参りましたわよ?
遅いと、あなたは怒っているかしら」
白い水仙を、石碑に手向けて、ロザリアは微笑んだ。
いつかどちらかの墓石の前に立つ時が来たら、その時は必ず笑っていよう。
それも恋人が彼女に求めた約束だったから。
石碑の前に跪いて、ロザリアは恋人の名に口づける。
ひんやりと冷たい石の肌が、ロザリアの身体の芯を凍らせた。
「リュミエール……」
撫でた文字の上、ふと指が止まる。
おかしい。
感じた違和感はなんの故か、ロザリアはじっと文字を見つめる。
何かがおかしい。
それは確かだった。
では何が?
眉を寄せ、さらに文字を見つめて気づく。
没年が、記されていないことに。
「どういうこと?」
没年が記されない理由。
それは名の主が失踪でもして、消息を絶ったから。
あるいはその死を隠さねばならない、なんらかの理由があったから。
おそらくは後者であるだろうと、ロザリアは冷えた頭で考える。
リュミエールは守護聖であった。
人の子として生まれ育ち、そしてある時を境に人の時間を生きなくなった。
戻ってきた時、彼の知る人々はとうに冷たい石の下にいたはずで、それから彼がどう生きようが、生まれた年、没した年を明らかにできたはずはない。
生涯、人に言えぬ秘密を抱え、尋ねられれば曖昧な消え入りそうな微笑を浮かべ、ごまかした事だろう。
守護聖、女王の出自は、公式には伏せられる。それは退任した後も同じ事で、その職歴はすすんで口外して良いものではない。
記されぬ没年に、ロザリアの胸はつきんと痛んだ。
清らかで優しい、あのリュミエールが、既に彼の知る故郷ではないこの地で、どんな思いを抱えて過ごしたものか。
たった一人で。
「遅いと、恨み言をおっしゃっても良いわ。
聞いてさしあげますわ。リュミエール」
生誕の年のみ刻まれた名の上を、手袋をはずした指が行き来する。
ひんやりとした石の碑は、何も答えない。
花びらの舞い落ちる丘の上、ロザリアはいつまでもそこを離れなかった。
「あの……。失礼ですが……」
控えめにかけられた声に、ロザリアははっとする。
顔を上げると、淡い水色の髪を束ねた青年が、気遣わしげにロザリアを見下ろしていた。
立ち上がり、青年の前に立って、軽く会釈した。
「なにか?」
「もうすぐ日が暮れますよ。急いで帰った方が良い。
嫌じゃなければ、お送りしましょう」
押し付けがましくならないようにと、青年は気を遣っているらしい。
戸惑いがちの表情が、ロザリアには好ましかった。
青年の言うとおり、既にすっかり日は傾いて、遠く海の果て、空との境目に今にも沈んでゆきそうであった。
薄闇が辺りを染め始め、夜の冷気が忍び寄る。
「岬のお館にいらしたのでしょう?
小さな町のことですからね、噂はすぐに広がりますよ。
お送りしましょう」
重ねて促されて、ロザリアは頷いた。
農作業用の馬車に、青年はロザリアを乗せた。
「あんまり快適じゃあないですが、我慢してください。
歩くよりずっと速いですからね」
がらがらと車輪を弾ませて、ゆるい坂道を車は下る。
道々、彼は身内の墓参に来たのだと、当たり障りのない話をしてくれた。
「祖父はね、腕の良い猟師だったんですよ。俺は親父の農場を継いだけど、祖父の代までは猟師でね。
その祖父の自慢は、銀の狼をしとめそこなったことでした」
しとめそこなって、どうして自慢になるのか?
首をかしげたロザリアの気配に気づいたか、横顔を向けたまま青年は笑った。
「ああ、よその惑星から来た方にはわからないでしょうね。
銀の狼というのは、特別なんですよ。伝説の狼でね。
昔、海が荒れると海神に美しい女を差し出して、その怒りを鎮めていたんだそうです。
ある時、この惑星に大きな戦いがあって、土地の領主は当然その戦いに出た。
領主には思いを寄せる娘がいたんですが、海の荒れた夜に国で一番美しい娘であった彼女は、海神に差し出されてしまったんです。
戻ってきてそれを知った領主は、気も狂わんばかりに嘆き悲しみ、ついには領地を出奔してしまった。
そして望んだのだそうです。
その娘が再び自分の腕に帰るまで、けして死なない身体が欲しい。
そのためには、どんなことでもする。
憐れに思った海神が、その願いを叶えた。
領主は銀の狼となって、恋人の転生を待ち続けることを許されたんだそうですよ」
もう一度、この腕に抱けるまで死ねない。
領主の激しい思いが、ロザリアには理解できる。
愛した娘を突然奪われた彼の怒りは、いかほどであったろう。
自分が何をした?
ただ義務を果たし、その末に待つものはこれか!
怨嗟の声が聞こえるようだ。
「伝説がほんとかどうかなんて、俺は知りません。
でも祖父は見たんだって、言ってましたよ。
追い詰めて、銃を向けたって。けど撃てなかったんだそうです」
青年は続ける。
「あんまり綺麗で、なんというか、聖なる生き物みたいな感じがしたと、そう言ってました。
村の者は、誰も見たこともない銀の狼です。みんな祖父の大ボラだと、言ってましたよ。
でもね、俺は信じてるんです。
祖父は無口でしたが、とても正直な人でしたから。
銀の狼は、きっといるんです」
お喋りをしているうちに、馬車は岬の館前に着いていた。
とっぷり暮れた夜の闇が、足下さえも危うくさせる。
青年に手を貸してもらって、ロザリアは馬車を降りた。
「本当にありがとう。助かりましたわ」
にっこり笑って礼を言うと、照れくさげに青年は頭をかいた。
「たいしたことじゃあありません。でもこれからは気をつけて。
夜には銀の狼が出る。これ、伝説だけど、本当なんですから。
祖父が見たって言う狼は、夜、とびきり綺麗な女のもとへ現れるんだって。
あなたはとても綺麗だから……」
最後の言葉は、言ってから自分でも恥ずかしくなったのか、夜の闇にもはっきりわかるほど顔を赤らめていた。
「じゃあ」
青年の馬車が遠ざかるのを、ロザリアは見送った。
遠く山の向こうから、獣の遠吠えが聞こえる。
「まさか……ね」
口にして微かに笑い、ロザリアは館の内へ戻った。