夜曲(8)
冬の終わりを告げる嵐が、穏やかな海に吹き荒れた晩の事だった。
激しい雨風が館の窓を叩き、ガタガタと恐ろしい音をたてていた。
しばらくくすぶり続けた胸の不安を、そのまま映したような空模様に、リュミエールの身内で何かが弾けとぶ。
雨よけのフードを形ばかり引きかぶり、リュミエールは荒れ狂う海辺へと向かった。
季節の変わり目の儀式であるこの嵐に、人の身でたち混じろうとする慮外者。
海神の怒りを乗せた高波が、リュミエールを今にも飲み込もうと、押し寄せる。
激しい波音の中、引き剥がされたフードの下で、リュミエールは必死に叫んだ。
「お願いがあるのです! どうかお聞き届けください」
ごうごうとうなる波風が、リュミエールの叫びをさらって消した。
「どうか……。どうかわたくしの願いを!
わたくしはリュミエール、あなたの加護を受けた男につながる者。
お願いが、どうしても聞いていただきたいお願いがあるのです」
幾度目かの叫びに、波の音が止まる。
風が止まり、ついで海が凪いだ。
不気味な静寂が辺りを覆う。
「あの男の一族と言うか? おまえが……?」
凪いだ海の表、暗く沈んだ藍色の波の狭間から、ふうと湧き上がる声。
乱れた銀青色の髪をかき上げて、リュミエールは膝を折る。
頭を低く垂れ、ひざまずいたリュミエールの視界の端に、音もなく波間をすべる青年がある。
さらに頭を低くして、リュミエールは息を詰める。
年をとらない神々は、皆美しい青年の姿をしていると聞く。
そうであれば、あの青年こそ、海神その人に違いない。
姿形こそ、人と変わらぬ様子だが、すべての海を統べる神。その神に、これから自分は願いを聞いてもらわねばならぬ。
なるか、ならぬか。
リュミエールの背中に、冷たい汗が伝った。
「なるほど……。リュミエールと言ったか?
おまえの身から、聖地の名残が感じられる。
守護聖であったか」
海の色の瞳、長い黒髪の海神は、ふんと軽く鼻を鳴らしてそう言った。
「で? 我に願いがあると?」
さして興味もなさそうに、冷めた口調で続けた海神に、リュミエールは視線を伏せたまま口にした。
「わたくしに時間を、人には許されぬ、しばしの時間を。どうか……」
僅かの沈黙の後、海神は息だけの笑いを漏らした。
「おまえもか……。いずれ聖地で恋しい女と会ったのであろうが……。それにしても確かにおまえはあの男の所縁。
我に願う望みさえ、まるで同じであることだ」
遠い昔、彼を鎮める代償に差し出された娘があった。
穢れなき乙女、時の領主の許婚。
乙女は言った。
「わたくしの身が、皆のお役に立つのでしたら……。
喜んで参りましょう。
けれど唯一つの心残りはあの方のこと。
わたくしが海神のもとにあがったと知れば、どんなにお悲しみになるでしょう。
それがわたくしには、とてもつらい」
白百合の頬を伝う涙に、海神は情けをかけた。
「娘、おまえの気がかり、その男が、もしおまえの涙に値する男であったなら、我はそやつの望みをかなえよう」
だから約束どおり、彼は男の願いをかなえた。
「もう一度彼女に会いたい。そのためならば、私はどんなことでも受け容れます」
娘の思いに値する、男の思いの激しさに、その願いをかなえてやった。
娘の転生を待つだけの時間を、男に。
人の身には許されぬ長い時間なら、海神の加護を与えた、銀の狼の現身で。
遠い記憶を手繰り寄せて、海神は懐かしげに目を細めた。
「人の身に許されぬ時間を与えよと。その身、人ではなくなるが、承知のことか?」
かつて遠い昔に口にした、同じ質問を目の前の青年に投げる。
銀青色の長い髪をした青年は、迷わず頷いた。
「この身が何に変わりましょうとも……。もう一度、彼女に会えるのでしたら」
重ねて問う。
「月が満ちて、またその次の月が満ちるまでの間……だ。
人の姿に戻れるのは。
銀の狼、あの男の末裔と契り、当代の首領となれば、おまえの望みはかなえられよう。
それでも選ぶか?」
夜の闇に融ける長い黒髪、透き通る白い肌。
すらりと優雅な長身のその姿は、不思議な光彩に包まれて、彼が神であること、その言葉に偽りないことを、リュミエールに教えてくれる。
「良いのだな?」
それは確認であった。
リュミエールが頷くと、海神の白い指が高々と天を指す。
「聞き届けよう。これより、おまえは我が眷属である」
瞬間、閃く稲妻に、リュミエールは思わず目を閉じた。
その後は、覚えていない。
まばゆい白い閃光が意識を覆い、そこで途切れる。
薄れ行く意識の中、動き出したらしい辺りの波音が遠く遠く、繰り返し響いていた。