夜曲(9)

「気がついた時、わたくしはもうこの姿でした。
人の姿を失って、それでもわたくしは嬉しかった。
これで貴女をお待ちできる。
ただそれだけが、わたくしの望みだったのですから」

 リュミエールは、長い昔語りをそう結んだ。
 月の光に照らされた銀青色の毛並みは、しっとり濡れているように艶々と美しく、淡い水色の瞳には寂しげな微笑が浮かんでいる。
 それまでじっと恋人の声に耳を傾けていたロザリアの、赤い唇が開いた。

「わたくしも。わたくしの望みも、あなたと同じですわ。
だから感謝していますの、あなたに。
待っていてくださって、ありがとう。
ありがとう、リュミエール」

 白い腕が愛しげに、リュミエールの身体を抱いた。
 そしてその頬に、そっと口付ける。
 うっとりと目を閉じたリュミエールは、ふいに低いうなり声をあげて、ロザリアの腕を振り切った。

「どうかなさって?」

 驚いて声をあげたロザリアに、先ほどより少しばかりの距離をとったリュミエールは、ふいと顔を背けたまま。

「本当にどうかなさって?」

 重ねて問う恋人に、リュミエールは苦しげに顔を歪めて答えた。

「夜、人の姿を保つには、条件があったのです。
わたくしの本性は既に狼です。
人の姿をとらぬわたくしは、狼として生きねばなりません。
狼として食し、休み、狼の生活を送ること、それが条件」
「リュミエール」

 名を呼ばれて、視線を恋人に戻す。
 恋焦がれた蒼い瞳が、不安げに揺れている。

「貴女にもう一度お目にかかりたい。この腕に貴女をお抱きしたい。
それだけで、わたくしは何にでも耐えられました。
浅ましい獣の性を生きることも、耐えられた。
ですが……。
貴女をこの腕に抱いて、わたくしは今更ながら、わが身の性が厭わしくなったのです。
朝に昼に、貴女と共にあれぬわたくしの身が。
貴女に会えぬ間、生きるためにわたくしの為す獣の性が。
いつかわたくしは、狼として生きることを拒むようになりました。
それはそのまま、わたくしの力を失わせること。
夜、月の光の下でのみ許された時間すら、人の姿を保てぬようになったのです」

 すべてを語ることは、できなかった。
 語るには、あまりに生々しい狼の生活であった。
 一目会うまではと、心を閉じて命をつないだ。
 ロザリア、記憶の中にある姿にまして美しく清らかな彼女の前に、汚らわしく浅ましいわが身が厭わしく、情けなくなった。
 では海神との契約を悔やむかと問われれば、答えは決まっている。
 否。
 あの時、自分には他に選ぶべき道などなかったのだから。
 ロザリアに会わないでいることなど、できるはずもない。
 けれど会ってしまえば、また違う苦しみが生まれるものだ。
 もっと、もっと長い時間をと、リュミエールは望んだ。
 月が西に傾いて、代わりに東に昇る太陽が憎らしかった。
 あの日の下で、人の姿を保つことはできぬ。
 朝も昼も夜も、ロザリアの生きる時間のすべてを、共に過ごしたいというのに。
 朝と昼、それに月のない夜、狼の本性に戻った自分のしていることいったら、獣そのものの性である。
 山野を駆けて獣を追って狩り、食した。
 そして何より厭わしいのは、彼が海神の眷属、銀の狼の首領であるがゆえに、為さねばならぬ務めであった。
 美しい乙女を奪い、そして彼女を主人に差し出すこと。
 それはけして頻繁にではなかったけれど、数百年に一度はあることで、その何よりも厭わしい義務に、リュミエールはただロザリアに会うためにだけ耐えた。
 ロザリアを腕に抱いた後、リュミエールはいつも怯えていた。
 いつか、いつかロザリアに知られる。
 退位したとはいえ、聖なる女王であったロザリアに、いつまでも隠しおおせるものではない。
 いつかすべてを知られてしまうだろう。
 その時、自分はすべてを失う。
 ロザリアの愛を失って、他に何が残るというのか。
 ただロザリアのためにだけ、何もかもを捨てた自分に何が。
 その時を恐れ、それが一瞬でも遅くに来るようにと、リュミエールは狼の義務を放棄した。
 するとたちどころに彼の力は弱まり、狼としての生を保つのも危うくなってゆく。
 人の姿に戻らねばロザリアには会えぬ。
 けれど会って、その愛を失うのはもっと恐ろしい。
 では会えぬまま、このまま生きてどうするのか。
 何の甲斐あって、狼の姿で生き続ける。
 ぐるぐると回る思考の迷路に陥って、満足に眠ることもできず、リュミエールはここしばらくを過ごした。

「貴女にお会いしたい。あれからずっと、わたくしはそればかりを思い続けておりました。
けれど同時に会いたくはなかった。こんな浅ましい姿では……」

 搾り出すような低い呻きは、まるで泣いているように聞こえた。

「愛してくださったからでしょう?」

 月の光に融けるような、細く綺麗な声が響く。

「リュミエール、わたくしを愛してくださったから。
あなたのその姿は、そのためでしょう。
嬉しい、愛しいと思いこそすれ、他に何があるでしょう」

瞬きもせず、蒼い瞳がじっとリュミエールを見つめる。

「愛していますわ、リュミエール。
あなたが差し出した大切なものすべてを、わたくしに償えるとは思いませんけれど、それでも一緒にいてほしいわ。
あなたがどんな風に変わっても、わたくしにはリュミエール、あなたの他、なんの望みもないのですわ」

 心に滞った澱が流される。
 リュミエールの心に、恋人の綺麗な声は染み入って、穢れた澱を透過する。

「わたくしを赦すと? 獣になりさがったわたくしを、あなたはそれでも愛してくださると」

 訊ねるまでもない。
 恋人の蒼い瞳は、とうに彼の恥ずべき性を見通して、それでもなお包むように優しい。

「わたくしも狼にしていただきましょう。海神にお願いして。
そうすれば、ずっとあなたと一緒にいられますわ」

 良いことを思いついたとばかり、ぱっと明るくなる恋人の表情に、リュミエールは何をばかなと慌てて止めた。

「ばかなことをおっしゃるものではありません。ロザリア、貴女は昔からそうでした。
案外、無鉄砲なことを平気でおっしゃって、わたくしはその度、ハラハラいたしましたよ」
「あら、でもリュミエール。そうすれば一緒にいられますのよ?
わたくしにとっては、それが一番大切なことですのに」

 遠い日、初めて出会った少女の頃、他愛ない喧嘩をしては、同じような表情をロザリアは見せた。
 ほんの少し唇を突き出して、頬を赤らめて。
 懐かしい愛しいその顔に、リュミエールは微笑した。

「嬉しいことを言ってくださいますね。ですが……、それはできません。
貴女をわたくし以外の男の下に置くことなど、わたくしに許せるとお思いですか?
たとえそれが神であっても、わたくしにはとても許せませんよ」

「ではリュミエール。その姿のままで、わたくしと一緒にいてくださるのね?」

 半ば脅迫じみた恋人の微笑に、リュミエールは首を振った。

「それはできません」
「なぜですの?」

 自分の思いがわからないのかと焦れて潤んだ恋人の瞳から、リュミエールは目を逸らした。
 愛している。
 だからこそ、この姿では一緒にいられないのだと、どうしてわかってはくれないのか。

「リュミエール。なぜですの?」

 重ねて問われて、リュミエールはため息をつく。
 不機嫌に、ぼそりと言った。

「この姿では、あなたをお抱きすることもできません。
わたくしは禁欲主義者ではありませんから」