或る恋の話
うららかな陽光が優しい早春の聖地。
新女王の即位により安定した宇宙の中心は、この上もなく平穏であった。
それは前女王の献身の結果で、滅びかけた星々の大移動を成し遂げた彼女は、その身の力を使い果たして静かにこの地を去った。
1人の女性の生気と力を吸いとって、ようやくあるこの世の平穏であったのに、その事実を知る者はごく少数。
女王、それに仕える9人の守護聖の存在は、普通に生きて死んで行くほとんどの者にとって無縁のものであったから、それはむしろ当然のことであるかもしれない。
だが己が存在の意味すら知らぬ、見も知らぬ多くの者の平和な生活と生涯を守る為、聖地にある女王と守護聖はその身を削り、長い孤独に耐えねばならぬ。
聖なる力を宿した時から、彼らには人とは異なる寿命が与えられる。
外界と隔絶された聖なる土地で、ただひたすらに他人のために生きるのだ。
その運命を受け容れて、先ごろ新女王が立った。
まっすぐな澄んだ瞳は濃い蒼で、きりりと背筋を伸ばし、いつも前を見つめていた少女。
人であった時の名を、ロザリア・デ・カタルヘナと言う。
聖地を見下ろす小高い丘の上で、新女王ロザリアはゆっくりと手綱を絞った。
息をあげた栗毛の馬が、たちどころに反応する。
前脚を上げてその歩様を止め、ぶるるると首を振った。
その首をぽんぽんと叩いて、ロザリアは愛馬の背からひらりと下りる。
「良い子ね。
しばらく好きにしてくると良いわ。」
この場所で休むのはいつものことで、愛馬の方も心得たものである。
ひんと小さく声を出すと、弾むような足取りでその先にある小さな水場に走って行った。
楽しげな後姿に思わず微笑しながら、ロザリアは草の上に腰をおろした。
じきに日が暮れる。
沈みかけた太陽が、空をワインの色に染めていた。
優しいロゼ色の大気が聖地すべてを覆うこの僅かな瞬間を、ロザリアは愛していた。
白い光の支配する昼間が、しっとりした闇の支配する夜へとこの地を引き渡す、幕間のような時間。
それは女王に即位する前、まだ彼女が女王候補と呼ばれる身分であった頃から変わらぬことで、誰にも内緒でよくここへ来たものだ。
遥かに霞む遠い山々。
あの向こう、女王の力によって張られた結界の向こうに、懐かしい人々が暮らす世界があった。
「お父様、お母様。」
もう呼びかける事さえできぬ言葉を口にして、胸の奥が熱くなる。
今日彼女は、聖地に流れる時間の速度を変えた。
女王試験も終わり、その関係者も皆それぞれの場所に戻った今、聖地の生活もあるべき姿に戻らねばならない。
ゆるやかにゆるやかに流れる時間。
結界の向こうとはまるで違う時間に。
即位する時、こうなることは覚悟していたはずである。
だが現実として受け容れるに、全く無感動というわけにはいかなかった。
気づけばここへ向っていた。
いつもの場所、ここなら多分思うさま泣ける筈。
ただのロザリアに戻って。
ロゼ色に染まった滑らかな頬を、ぽろぽろと涙がこぼれていた。
薄い闇がそろそろと忍び寄る頃。
遠く聞える蹄の音に、ロザリアははっとした。
どきんと大きく胸が鳴る。
丘陵を這うようにして続くなだらかな道を、こちらへとどんどん近づいてくるようだ。
かつかつと蹄の音が高くなる。
たまらずロザリアは、斜面を見下ろせる木陰へ駆け寄った。
白い馬が見える。
そしてその馬上には、やや前傾姿勢になった青い乗馬服の青年。
流れるような金糸の髪を、風になぶらせていた。
薄闇の大気がそこだけ白く照り輝いているようで、その姿がロザリアの胸に小さな痛みを走らせた。
「ジュリアス・・・さま。」
会いたくて、同時に会いたくはない青年の名前。
ロザリアを教え導いた厳格な光の守護聖。
今は女王であるロザリアに、忠誠を誓うその人であった。
数ヶ月前、即位前夜のこと。
我が身が担う重責に耐えられるようにと、ロザリアは1人聖殿の礼拝堂にこもっていた。
歴代の女王に、祈った。
運命を受け容れる勇気をと。
そしてもう一つ。
この運命を受け容れた上は、どうか思い切らせて欲しい。
初めての甘い切ない感情を、どうか忘れてしまえますように。
しっかりと指を組み合わせ、女王像の前で膝を折ったロザリアに、高窓から降り注ぐ白い月の光。
やわらかい光の中で、彼女は目を閉じてじっと動かないでいた。
朝になれば女王になる。
それまでの僅かな時間、この時間がかの青年を想う最後の時間だと言い聞かせながら。
「もう良いだろう。」
その背に、突然声がかけられた。
聞える筈のない声。
なぜ?
驚いて振り向くと、いつからそこにいたものか、金色の髪をした青年が立っていた。
「ジュリアスさま。」
「そなたの気のすむまではと思っていたが、ここは冷える。
明日は即位だという夜に、風邪でもひいたらなんとする?」
ゆっくりと近づくジュリアスの表情は、いつになく険しかった。
「立て。
送って行こう。」
怒っている?
女性が夜中にうろうろと出歩くなど、もっての他。
いつだったか、もう1人の女王候補であったアンジェリークが彼に叱られたことを思い出す。
だがそれと今夜とでは違う。
遊び回っているわけじゃないと、抗議の思いで振り仰いで、ロザリアは息をのんだ。
瑠璃色のきつい瞳が、揺れていた。
怒りではない。
むしろ苦しげに見えた。
その色をロザリアはよく知っていた。
それは彼女の瞳にあるのと同じ色。
あきらめようとしてそうできぬ、切ない苦悩の色だったから。
「ジュリアスさま。」
瑠璃色の瞳に、苦渋の色がのせられた。
「わたくし・・・は。」
<今貴方のことを思っておりました。>
そう続けようとするロザリアの言葉を、ジュリアスが遮った。
「さぁ、もう遅い。」
かがみこむようにして、ロザリアに差しのばしかけた右腕を、彼は即座に引き戻した。
ふいと視線を外す。
「明日には、女王となる身で。
自覚が足りぬ。」
それが最後の言葉。
ただの人であったロザリアが、ジュリアスとかわした最後の会話であった。
翌日ロザリアは即位した。
女王であってこそ、彼にとって価値ある存在なのだと知らされて。
蹄の音が近くなる。
白馬の荒い息遣いさえ聞えるようだ。
<どうしよう。>
ロザリアは動揺する。
即位してから既に数ヶ月が過ぎていたが、その間ロザリアはジュリアスに会うことを避けていた。
必要な取次は、補佐官がしてくれる。
女王と守護聖が直接言葉を交わさなくとも、別に不自由はないのである。
<今、どうして今なの?>
盛大に泣いた後で、まだまぶたは熱っぽく湿っている。
こんな様子を見られたくはない。
慌てて辺りを見まわしたが、見晴らしの良いここには、不幸なことに隠れる場所さえない。
<どうしたら良いの?>
内心で慌てふためいている間に、かっと蹄の音が間近で止まる。
「いるのだろう?」
低く、甘く、よく響くあの声がした。
「ロザリア、どこにいる?」
馬から下りる気配がした。
靴音が近づいてくる。
万事休すと目を閉じたロザリアの頬に、ひやりとした手袋の指が触れた。
おそるおそる目を開くと、青い乗馬服の胸。
頬に当てられた指が顎をとらえ、くいと上向きにさせられる。
瑠璃色の瞳が笑っていた。
「多分、ここであろうと思っていたが。
相変らず、わかりやすいことだ。」
なにを言っているのだろう。
黙ったままでいるロザリアに、ジュリアスの微笑は深くなる。
「女王が突然いなくなったのだ。
聖殿の騒ぎは、想像できるだろうに。」
叱っているわけではない証拠に、声には笑いが混じっていた。
「時間を調整したそうだな?
であれば、ここであろうと思った。」
「ここ・・・?
知っていたのですか?
わたくしがここに来ることを、知って?」
自分の行動を読まれていたことに、ようやく気づく。
応えの代わりに、ジュリアスはくすりと小さな笑いを漏らす。
同時にロザリアの細い腰は、強い力で抱き寄せられた。
さらに強くなった腕の力で、息もできない。
「おまえは自分が何をしたか、わかっているのだろうか?」
苦しげな声が降る。
苦しげに震え、どこか切ない。
「あきらめるということは、この身の宿命。
生きてある限り、受け容れねばならぬもの。
長い長い時を、私はそうして生きてきた。
幼い日、人であることに別れを告げた日からずっと。
だからあの夜、私は思いとどまった。
あきらめねばならぬと、無理に自分に言い聞かせて。
おまえに避けられて、狂わんばかりに自分を失い、そして知った。
もはや私は光の守護聖ではありえない。」
何を言っているのだろう。
抱きしめられた胸の中で、ロザリアの頭は忙しく回る。
ジュリアスは今なんと言ったのか。
「誇りなど要らぬ。
ただおまえがもう1度、私の名を呼んでくれさえすれば。」
たまらず振り仰いだ先に、弱く微笑した瑠璃色の瞳があった。
「ジュリアス・・・さま。」
小さく口にした名の音に、金色の長い睫毛が震えた。
「もう1度・・・。」
「ジュリ・・・。」
声は大気にとけず、ジュリアスの唇によって吸い取られる。
それまで抑えていた彼の心情を、その唇が代弁した。
何度も息をつぎ、そしてようやく名残惜しげに離される。
「私はおまえを欲し、その気持ちに従う。
抗って後悔するより、責めに耐えることを望む。
ロザリア。
私がそう呼ぶことを、許してくれるな?」
不器用な口説であったが、ロザリアの胸は熱く潤っていた。
「わたくしはロザリアですわ。
昔も、今も、そしてこれからも。
貴方の前では、ずっと。」
銀色の月の光。
木陰でそのまま寄りそう2人に、微笑むように優しく降り注ぐ。
いずれの日か、彼らは再び決断を迫られるだろう。
力が衰えたその時、ただの人に戻って彼らはこの地を去ることになるはずだった。
それがいつのことかはわからないが、その衰えが同時にこないことだけは、はっきりとしていた。
その時どうするのだろう。
現在ある幸せに酔いながら、ロザリアはやがて必ずくるであろう選択の日を漠然と思った。
「どうした?」
シャツをきゅっと握り締められた感覚に、ジュリアスがロザリアをのぞき込む。
瑠璃色の優しい視線に、ロザリアの怖れが融けてゆく。
そしてこの優しい色をくれたジュリアスに、今度は自分が応えようと思う。
義務よりも彼女を選んでくれた彼に、次は自分が応える番だと。
「いつまでもこうしていたい。
そう思いましたの。」
胸の思いを要約して応えると、ジュリアスの微笑が濃くなった。
「ああ、そうだな。
そうしたいものだ。」
聖地を見下ろす丘の上、見事な枝振りの木があって、その下に似合いの一対。
少し離れて白と栗毛の馬が2頭。
それぞれの主人を見守るように、じっとそこに立っていた。