萱葺きの城(2)
「いかがでございましたか。
お嬢さま。」
乗馬用のステッキと帽子を受け取ったロザリアの乳母が、続けて上着を脱がせにかかりながら優しい声で問いかける。
彼女が手塩にかけたカタルヘナ家のお姫さまは、全く申し分のない貴族の令嬢に育ってくれた。
腰までとどく艶のある紫がかった髪は、朝晩彼女によって丹念に手入れされたものである。
すらりと伸びたしなやかな肢体。
優雅な身のこなし。
今年17才を迎えたロザリアは、彼女の自慢のお嬢さまだった。
「いつものとおりよ。
あの仔が良くなかったことなんて一度もないわ。」
当然のことだといわんばかりに、ロザリアは自慢げな表情をして見せた。
3歳になった彼女の愛馬には、この冬から本格的な調教メニューが組まれていた。
専属の調教師が、そろそろ彼女を乗せても良いだろうと判断したのがこの春のこと。
まだ子どもっぽい我侭が時折のぞくこともあるが、概ね問題なく仕上がってきている。
シュプリーム号。
至上の名を持つ彼女の愛馬は、その年令の割には大柄な馬で既に470キロ近い体重があった。
母のレディージンジャー譲りの栗毛の馬体に、眉間から鼻先に走る白い流星。
見た目にもなかなかの美男子であったが、それより何よりも、彼が賢くカンの良い気性であることが彼女を喜ばせていた。
「並の馬でも人間の5才児くらいの知能があるということだけれど、あの仔は特別ね。
人間よりもわたくしの気持ちがわかるみたいだわ。」
「それはようございましたね、お嬢さま。」
乳母はにこにこと頷いた。
例えばロザリアが雪は赤いといったとしても、彼女はそうだと頷くだろう。
だが彼女のその愛情が、ロザリアの欲しいものであるかどうかを考えたことはない。
ロザリアが彼女に満足してないはずはない。
彼女はそう信じて疑わなかった。
「お嬢さま、今日は急いでお湯をお使いになってください。」
一息ついたところで、乳母がロザリアの着替えを持ってきた。
いつもより改まった色調とデザインの服が、彼女の腕の中にある。
「どうかしたの?」
その服は何?
目で問いかけるロザリアに、乳母はほんの少し困ったような笑いを浮かべた。
「奥方さまが、お部屋にお呼びでいらっしゃいます。」
「そう。」
無表情な声。
「わかったわ。
すぐに支度します。」
彼女の足は既にバスルームへ向かっていた。
オムツの頃から彼女の世話をしてきた乳母には、無表情に見える彼女の憂鬱が分かる。
実の母である公爵夫人と会うことは、彼女の大切なお嬢さまにとってどうも面白くないことらしかった。
ただ彼女のお嬢さまは、それを他人に気づかせない。
おそらく公爵夫人に対する感情を知っているのは、この広い屋敷の中でも自分だけだろうと思う。
お可愛そうにと心を痛めながらも、やはり自分がお育てしたお嬢さまだと誇らしい気持ちもあった。
貴族の女性は生の感情を、そう易々と他人に見せるものではないのだから。
「お母様、お呼びでしょうか?」
先触れが彼女の来訪を告げていたにもかかわらず、公爵夫人は娘の呼びかけにも気がつかない様子だった。
ロザリアの目の前で、母が若い金髪の男の首に腕を回していた。
短い金の巻き毛のその男は長身をかがめるようにして、長いすに寝そべった母の抱擁を受けている。
薄いジョーゼットの優雅な袖口が肩口までずり落ちて、母の白い二の腕をむき出しにしていた。
ロザリアはただ待った。
こういう時にどうするべきか、彼女はいつのまにか学んでいたから。
彼女の目に映る母の姿態。
金髪の愛人。
それらはすべてそこに存在しないものなのだ。
いや、実際には存在するのだが、彼女の目が映して良いものではないと言うべきか。
だから母の抱擁を離れた男が、ロザリアに丁寧なお辞儀をした時も彼女は何の反応もしない。
乱れた巻き毛や襟元で歪んだシルクのボウは、確かに彼女の目に映ってはいるのだが、それは彼女の目が捉えるべきものではない。
いささかも悪びれた様子のない若い愛人は、酷薄そうな薄い唇に皮肉な笑いをためて彼女の傍を通り過ぎる。
母の移り香がした。
男の体臭と入り混じった、ひどく淫らなにおい。
胸の悪くなるような吐き気を必死で抑えて、彼女は無表情を守り通した。
扉が完全に閉じられる音を確認してから、彼女はもう一度母に呼びかける。
「お母様。
お呼びとうかがいましたが。」
「あら、ロザリア。
ごきげんよう。」
ようやく起きあがった母の目は、まだぼんやりしていた。
身体にもどこかとろんとした頼りなさが残っているようだ。
こういう様子の母を見慣れているはずのロザリアではあったが、それでもやはり目を逸らさずにいられない。
「何をしているの?
さあ、こちらへお掛けなさいな。」
少女のような若々しい容貌の母だった。
何もかも小作りで、いつまでもその容色は衰えを知らない。
本人もそれを意識しているようで、我が娘に笑いかけるときでさえどこかに媚態がにおう。
同性であるからだろうか。
ロザリアは母に向かう時にいつも思う。
父の館にも愛人はいる。
滅多に顔を見ることはなかったが、それでもごく稀には、ロザリアの異母弟になる赤子を抱いた女性を見かけることもあった。
それは愉快な感情ではなかったが、母に対するものよりはマシであるような気がする。
母は父と同じ事をしているに過ぎない。
なのに・・・。
こうして母と向かい合ったときにこみ上げる、叫び出したいような嫌悪感。
この感情は一体何なのだろうか。
母のすすめる長いすではなく、ロザリアはその向かいにあるスツールに腰掛けた。
「あらあら・・。
そこは落ちつかないでしょうに。」
母は苦笑しながらも、それ以上は強いてすすめない。
「お話があるのは、わたくしではないのよ。」
「そうですの。」
「公爵がね・・、あなたとわたくしにお話があるそうよ。」
公爵。
母は夫である男をそう呼んだ。
「お珍しいこと。
あなたはともかく、わたくしにまで居るようにだなんてね。」
母とロザリアの住むこの館に、父が訪れることは滅多にない。
父がロザリアに会う時は、大概彼の館であった。
母も父もそれを不思議に思ったり、寂しいと感じている様子もないようだ。
まして相手の私生活に干渉する気など、さらさらない様子だった。
「お父様はいつおいでになるのでしょう?」
いつまでもこの部屋に居たくない。
それが本心だったが、ロザリアは努めてさりげなく口にした。
「さあ。
直においでになるでしょう。」
まるで興味がないという母の声。
母の注意は既にロザリアにない。
美しく染められた爪の先を眺めながら、小首を傾げて考え込んでいる。
「新しいデザインを試してみようかしら?
カットも変えて・・、色は・・、どうしようかしらね。」
「ずいぶんと久しぶりですね、だがお元気そうでなによりです。」
部屋に入ってきた父は、そんな風に挨拶をした。
「前にお会いしたのはいつでしたか?」
「さあ?」
上目遣いに父を見上げる母の目に、少しの恨みや怒りも見当たらない。
「どうでしたかしら。」
羽のように軽い声で母は笑った。
夫婦の形に決まりがあるわけではない。
百組の夫婦には、百通りの在り様があるはずだ。
必ずしも愛情で結ばれた夫婦ばかりではないだろう。
だとしても・・。
ロザリアは両親の会話を聞くたびに、絶望的な思いにかられるのだった。
自分の未来が見えるようではないか。
彼女が次期当主である限り、いずれはどこかの名門貴族の青年と結婚することになるのだ。
カタルヘナ家の血統を守り、次へ伝えてゆくこと。
これが彼女に課せられた義務なのだから。
まるで繁殖牝馬だわ。
家のために必要な自分。
彼女にはそれだけの価値しかないのか。
子を産んで家を守ることが、彼女の唯一の生きる道なのか。
そして義務の傍らで、母のように自堕落に、淫蕩な生活に耽るようになるのだろうか。
わたくしは嫌だわ。
17才でそんな未来を喜んで受容れる少女が、何処にいるだろう。
わたくしは母のようにはならない。
決してなるものですか。
けれど、どうして良いかわからなかった。
カタルヘナ家の庇護を離れて、彼女に何ができるのか。
彼女の持つ教養も資質も、それが生かされる環境にあってこそのものだということを、ロザリアは本能的に知っていた。
ただ闇雲に外へ飛び出して行けば何かが見つかると、そんな浮ついた考えは彼女にはない。
だがカタルヘナ家にいる限り、彼女の将来は見えていた。
どうすればいいの。
両親の軽い上品な挨拶の様子を眺めながら、ロザリアの心はひどく波立っていた。
「大切な話があってね。」
一通りの挨拶を終えた父が、ようやく本題に入る。
コーヒーが供された後、メイドたちはいつのまにか部屋から姿を消していた。
「ロザリアのことだよ。」
「わたくし?」
「そう、おまえの将来のことだ。」
重々しい調子で父が応えた。
いよいよ、来るべき時が来たのか。
婚約の話かもしれない。
ロザリアは身構える。
だが続いて父の口から出た言葉は、意外なものだった。
「今朝、女王府からお使いがあった。」
「女王府?」
思いもかけなかった単語に、一瞬ロザリアの思考が停止する。
「おまえを次期女王候補として、聖地に召喚するそうだ。」
「まあ!」
先に反応したのは母の方だった。
大きく見開いた、はしばみ色の瞳をロザリアに向ける。
「ロザリア、すばらしいことだわ!」
まだ自分の身に起こった出来事とも思えず、呆然としているロザリアの手を取って母は続けた。
「あなたが次の女王に選ばれれば、カタルヘナ家にとってこんな名誉なことはないのよ。
ああ、わたくしなんだかどきどきしてきたわ。」
「そう、全く名誉なことだ。」
普段ならば、絶対に母に向かって見せないだろう満面の笑顔で父が応えた。
「あなたに感謝しなくてはいけないのだろうね。
ロザリアを産んでくれたのはあなたなのだから。」
名誉。
家の名誉。
このために、夫婦は喜びを共有しているのだ。
それがロザリアには不快だった。
世襲制ではない女王の地位は、試験によって決定される。
もし選ばれれば、彼女は2度と両親に会うことはない。
時間の流れさえ外界とは異なる聖地にあって、その力の続く限り女王の重責を担うことになるのだ。
両親はそれをどう思っているのだろう。
何故、一言でも聞いてくれないのか。
おまえは大丈夫なのかと。
「お話はわかりましたわ、お父様。」
歓びとは無縁の冷めた声。
「さがっても宜しいでしょうか?」
その声で、ようやく両親の注意が彼女に戻った。
白い冷たい顔をした彼らの娘。
けれど彼女の気持ちは彼らにわからない。
彼らの愛情は家門の誇りと共に在り、それを喜ぶことが娘を傷つけることになるなどと、想像もできなかったのだから。
当然彼女も、その身の栄誉を喜んでいるはずだと信じて疑わなかったのである。
「どうした?
少し緊張しているようだな。
無理もないことだ。
かまわないから部屋へさがって休みなさい。」
「はい。
そういたしますわ。」
ロザリアは立ち上がる。
「それではごきげんよう。
お父様、お母様。」
退出の礼は、一分の隙もない、とびきり優雅なものだった。
女王候補。
女王試験。
わずか十分前には、考えもしない運命の変化だった。
彼女の足は自分の部屋ではなく、厩舎に向かっていた。
一人で何かを考えたい時に、彼女はいつもそうするのだ。
あそこにはシュプリーム号がいる。
誰よりも彼女の気持ちに敏感な、彼女の唯一の友人が。
厩舎の扉を開ける。
替えたばかりの寝藁の日向臭いにおいがした。
シュプリーム号は、馬房に吊るされたりんごのおもちゃを鼻先でつついて遊んでいた。
りんごが大好きな彼のために、ロザリアがフェルトとパンヤで作ったものだ。
本物と間違えて一度口に入れた後は、おもちゃだとわかったらしい。
今ではお気に入りの遊び道具になっていた。
黒い大きな瞳がロザリアに向けられる。
今日2度目の訪問に、どうしたのかと問うような目。
「聖地にね、行くことになるのですって。」
目頭が熱くなった。
鼻の奥がつんとする。
「お父様もお母様も、とても喜んでおいでだわ。
もしかしたら、もうわたくしと会えないかもしれないのに。」
いつのまにか涙が頬を伝っていた。
行くのが嫌なわけではない。
少なくとも聖地に行けば、繁殖牝馬のようにあてがわれた男と結婚する運命からは逃げられる。
そして彼女の素養が存分に生かされる舞台が与えられるのだ。
カタルヘナ家の次期当主として育てられた自分を、彼女は否定していない。
高い教養と品格を身につけさせるために彼女に施された教育は、すでに彼女の一部となっていた。
それなくしてロザリアではありえない。
だがそれと、彼女がどう生きるかは別であった。
次期当主として育てられた自分と、繁殖牝馬のように生きる自分とはイコールで結べない。
その二つがぴったり重なると信じきっている両親が、彼女は嫌いだった。
自分を少しも理解してくれないと。
そして今日また、それを再確認させられた。
彼女を失うことよりも、家門の名誉を喜んだ両親によって。
シュプリーム号が、ロザリアの頬に鼻面を押し付けた。
濡れた息がかかる。
「ぶるるるる・・・。」
澄んだ黒い目。
何度も何度も鼻面をこすりつける。
まるで彼女の涙をぬぐってくれているようだった。
「良い仔ね。
ありがとう。」
濡れた頬にようやく笑いが浮かぶ。
「そうね。
泣くのはわたくしらしくないことだわ。」
今までだって、ずっと一人でやってきたのだ。
誰かに理解されることなどなかった。
今更何を嘆くことがあるのだろう。
彼女は自分に言い聞かせる。
考えるべきはこの先のこと。
聖地に行って、彼女が彼女の能力を正当に評価されること。
これだけを考えていれば良いのだ。
「聖地に行きましょう。
来てくれるわね、一緒に。」
取り出したハンカチでしっかりと顔を直してから、ロザリアは彼に頼んだ。
涙で濃くなった彼女の青い瞳。
希望と喜びの代わりに、どこか諦めの混じった色。
シュプリーム号はもう一度首を下げて、ロザリアの頬に鼻面を押し付ける。
柔らかい毛の感触と、りんごの匂いがした。
「他人には期待しないわ。
でもわたくしは女王になる。
必ずなるわ。」
多分それが、今の彼女に選べる最良の道だろうから。
父や母の思惑など知るものではない。
今は自分のことだけ考えよう。
ロザリア・デ・カタルヘナ。
17才。
次期女王候補として聖地に召喚される。
一月後のことであった。