花の咲く頃(3)
逃げ出した。
そう。
わたくしは逃げ出しただけですわ。
どうしてみんな、わたくしがいつもいつも理性的であれると思うのでしょう。
あの時もそう。
そうだったのですわ。
わたくしの中にあった、まだ形にならない思い。
それを永久に閉じ込めることがどんなに難しく、残酷なことなのか。
誰もわたくしに教えてはくれなかった。
そして・・・。
わたくしはそれを受容れるしかありませんでしたの。
わたくしが、ロザリア・デ・カタルヘナであったから。
「ロザリア・・・・。」
アンジェリークがおずおずと、ロザリアの部屋に入ってきた。
女王候補として、この聖地に共に召喚されて半年。
ごく普通の家庭の少女であるアンジェリークは、素直で愛らしく、ロザリアはいつのまにか彼女を大切な親友と思うようになっていた。
「なによ?」
「うん・・・。」
いいにくそうに唇を尖らすアンジェリークを、ロザリアは焦れたように睨みつける。
「ああ!もうはっきりしない子ね。用があったから来たのでしょう?
早くおっしゃいよ。」
金色のやわらかい髪を揺らして、アンジェリークは小さくかぶりを振った。
「やっぱりいい。また、今度にするね。」
こういうはっきりしない、奥歯にモノのはさまったような言い方は、ロザリアの最もイライラするものであった。
言いたいことがあるならはっきり言えばいい。
どうしてそうしないのか。
「なによ!?気になるじゃない、さっさとおっしゃいったら!」
厳しいロザリアの口調に、アンジェリークはひるんだように後ずさりをした。
「そんな・・に怒らなくってもいいじゃない。」
「あんたがグズだからよ。
わたくしは忙しいのよ。この後だって、予定があるんですからね。」
アンジェリークは泣き出しそうな顔で、しばらくロザリアを見つめていたが、ようやく思いきったように口を開いた。
「あのね・・。わたし、女王様になるの、よしたの。」
「え・・?」
「降りるの。女王候補を。」
「あんた・・、何言ってるの?まだ、試験は終ってないのよ。」
「もう・・、女王様にはなれないの。」
アンジェリークが真っ赤になって俯く。
ロザリアにはわけがわからない。
女王になれないって?
どういうことなのだろう。
「わかるように言いなさいよ!一体どういうこと?」
アンジェリークの頬がますます赤くなってゆく。
「アンジェリーク!?」
「昨夜・・・、わたし寮へ帰らなかったの。」
小さな声で告白する。
何処に泊まったのか。
そう聞きかけて、さすがにロザリアにも事の真相が見えてくる。
急に頬に血が上る。
「そ・・それは・・・。」
先ほどまでぽんぽんと飛び出してきた言葉が、全く出てこない。
「だからね、ロザリアが女王様なんだよ。多分近いうちに。」
言葉に詰まるロザリアとは対照的に、告白したことですっきりしたのか、アンジェリークの方には余裕があった。
にっこりと微笑む。
ロザリアの知っているアンジェリークとは別人のような気がした。
その表情は穏かで落ちついている。
けれど同時に輝くように華やいでいて、ロザリアにはまぶしいようだった。
「わたしよりロザリアの方が、ずっと女王様に相応しいんだもん。
ロザリア、お願いね。」
「ええ・・。わかったわ。」
唇が勝手に動いていた。
本当は突然の驚愕から、まだ立ち直れずにいたのだけれど。
「よかった。」
とろけるような微笑を残して、アンジェリークは部屋を出ていった。
あの子が女王候補を降りる。
ロザリアは胸の中で繰り返す。
アンジェリークがある守護聖と特に親密であることは、彼女もよく知っていた。
ごく普通の少女であるアンジェリークは、はじめての恋を隠しておくことなど考えもしなかったようで、何かあるたびにロザリアに泣きついたり報告したりしていた。
だから、こういうことになっても不思議ではないはずなのだ。
けれどロザリアはそれを頭で理解していても、実感として受け止めることはしないで来た。
いや、できなかったのだ。
正直なところ想像ができなかった。
恋のゆきつく先にあるものが、どういうものなのか。
知りたいとは思っていたのだけれど。
とても。
あわあわとした頼りない思いが、ロザリアの中にあった。
はっきりと正体の見えない感情であったが、ロザリアにはわかっていた。
それを育てれば、恋の名を持つ感情になるのだということが。
だが、そうはならない。
アンジェリークの告白は、その機会が永久に失われることを意味していた。
残念だが仕方ないこと。
ロザリアはそう思った。
もともと聖地には女王になるために来たのであって、それ以外のためではない。
はじめの予定通りになっただけ。
だがなぜか心がぐらぐらと揺れる。
とても不安定に。
おかしいわ。
眉を寄せて首を振る。
自分の行動と感情は、いつもきちんとコントロールしてきたのに。
どうしたのだろう。
この時彼女はまだ知らない。
コントロールできない種類の感情も、この世には確かにあるのだということを。
その夜。
ロザリアの部屋に女王からの呼び出し状が届いた。
明日、午前十時、謁見の間に来るように。
その手紙の文言が何を意味するか。
覚悟はできていた。
受容れるしかない。
遅かれ早かれそうなるのだ。
ロザリアは、いつもより早めにバスルームを使った。
たっぷりと時間をかけて全身の手入れをする。
しゃんと背筋を伸ばし、きりりとした表情で、その宣旨をうけよう。
鏡に向かってそう思い決める。
ドレッサーの中の彼女は、昨日までより少しだけ大人びて見えた。
かたかたかた。
風が出てきたようだ。
窓ガラスが小刻みに震える。
コツン。
何かがガラスにぶつかった。
厚いガラスが割れることはないだろうけれど。
とりあえず気になるので、ロザリアはカーテンをあけて窓の外を確かめる。
ちらりと何かが動いたような気がした。
コツン。
2度目の物音。
ザワザワと胸が騒いだ。
窓を開ける。
秋の終りの冷たい夜気が、一気に忍びこむ。
テラスへ出た。
そして息を呑む。
いつからそうしているのだろう。
そう思うほどに、じっと動かずただこちらを見上げる騎乗の男。
暗闇に銀色に光る二つの瞳。
夜目にもはっきりとわかる鮮やかな紅い髪。
動悸が速くなる。
息が苦しかった。
「出て来られないか?」
低く湿った声が闇に溶けた。