花の咲く頃(4)

 

風を切る。
夜の闇を縫って、馬は駆けてゆく。
びゅうびゅうと音を立てて風が耳元で唸った。
恐ろしくはない。
なのになぜ、こんなに胸の動悸が速いのか。

「出てこられないか?」
その言葉が、すべての思考を停止させた。
すぐさま部屋にとって返し、青いガウンを引っ掛けただけの姿で外に飛び出す。
じっと動かぬ炎の守護聖オスカーの前に、息を切らして駆け寄った。
その瞬間、ロザリアの身体は宙へ浮く。
ぐいと伸ばした彼の左腕が、彼女を横抱きにしてそのまま胸の中にすっぽりと収めてしまっていた。
馬が駆け出す。
それから先は、覚えていない。

「寒いか?」
頭の上で声がした。
返事の代わりにロザリアは、冷たい頬を声の主の胸に押し付ける。
しっかりと強くなる、抱きしめられる腕の力。
その腕に、その胸に、触れた部分だけがかあっと熱を持つ。
心臓の音が聞こえてしまうのではないか。
自分の動揺が彼に伝わってしまうのではないか。
ふいに恥ずかしくなって、ロザリアは彼との密着を解こうと試みる。
ぐっとこめられる力。
逃げることなど許さない。
彼の腕がそう言っている。
さらに強くその胸に押し付けられて、ロザリアの頬は熱くなる。
吐く息も熱い。
もう何も考えられなかった。

カッ・・。
高い蹄の音を響かせて、馬が速足を止めた。
どこだろう・・。
ロザリアには見当もつかない。
ずっと伏せたままの顔を上げる。
射すくめるような、強い視線にぶつかった。
薄い氷のような青い瞳が、夜の闇の中で銀色の妖しい光を放つ。
初めて見る、彼の表情だった。
「オスカー様・・。」
彼は応えない。
「ここは・・?」
声が震えた。
怖くなどないのに。
「どこでも・・いいさ。俺は、ただ君を連れ出したかった。
それだけだ。」
抑えつけたような低い声。
華やかで陽気な、いつもの彼とは違う。

どうしようもない苛立ちが、オスカーの胸で荒れ狂う。
何故!
何故こんなことになってしまったのか!
女王候補は二人。
片方が候補を降りれば、自動的にもう一方が女王になる。
わかっていたことだ。
だが、彼はどこかでタカをくくっていた。
彼の他の守護聖が、候補に対してそんな大それたことをしでかそうとは!
考えもしなかった。
女性の扱いに関しては、聖地で彼にかなうものはない。
そう噂されていたし、彼自身自認もしていた。
その彼にさえはばかられることを、やってのける者がいようとは!
なんにせよ、彼がためらっている間に、先手を打たれたことだけは確かだった。
それによって、彼のまだ打ち明けてもいない思いは、このまま封印せざるを得ない状況に追いやられる。
大切に育てようと思っていた。
彼の恋が、自分でも驚くくらい真剣なものであったから。
恋という感情さえ知らないロザリアに、自分の思いをそのままぶつけることは抑えてきた。
だんだんに心を開いていく初々しい彼女を見るのは、彼にとって嬉しい事であったが、同時に今までにない忍耐と自重を要求される苦しい過程でもあった。
ようやく最近になって、ロザリアの方でも彼に好意以上の感情を意識し始めたようであったのに・・・。
その矢先、彼の前で舞台の緞帳は下りた。
まだ一幕目さえ終ってはいなかったのに。
今、腕に抱いているこの小さなぬくもりは、明日には彼の手の届かぬところにいる。
そして、おそらくはそのままずっと、彼の元には帰ってこないだろう。
女王と守護聖のサクリアが、同時に尽きることなどありえない。
どちらかが先に力尽きて、この地を去ることになるのだ。
恐ろしいほど速く流れる下界の時間。
聖地に残った一方が下界に戻る頃見るものは、先に下りたもう一方の墓石だけ。
それがこの恋の行きつく先だ。
手綱を取った右手の拳が震えた。

オスカー様・・。
名を呼ぼうとして、ロザリアは口をつぐんだ。
見上げた先にある彼の表情が、あまりにも険しいものだったから。
昨日まで、たった昨日まで、彼と会うことは楽しいことだった。
確かな恋情を示す、彼の薄い青の瞳にのぞきこまれるのが、ロザリアは好きだった。
ときに甘く、ときに優しく、表情を変える彼の声も。
彼の持つすべてのものが、このまま永遠に彼女の傍にあるものだと、ロザリアは錯覚していたのだ。
今日。
今日、アンジェリークの告白が、ロザリアにそれが錯覚であると気づかせた。
皮肉なことだ。
道が閉ざされて初めて、彼女は彼と一緒に居続けたい、そう強く願っている自分に気づいたのだから。
聖地に来る前にはあんなに魅力的であった女王の地位も、いまや邪魔なものでしかない。
胸の奥にようやく芽を出した新しい感情を、抑えつけよと命じる大義名分。
誰かがその地位につかねばならない。
それはわかっている。
けれど。
何故。
自分でなくてはならないのか!
この恨み言、けっして口には出せない。
出してはならぬ。
ロアリアには、それもわかっている。
自分の感情を抑制すること。
そんなに難しくはなかったそのことが、今回だけはとても辛い。
だがそれは、この先続く辛さには比べるべくもないものだった。
後になってロザリアは、この瞬間を苦い思いで思い出すことになる。

馬が再び動き出す。
お互いに口は開かない。
ただ抱きしめる腕、すがりつく細い腕に、いっそうの力が入るだけ。
鞍上の振動と蹄の音だけが、二人を包む。
秋の終りの木の葉の匂い。
風が冷たかった。
じきに冬が来る。
薄いガウンの襟元から、冷気が忍びこむ。
ロザリアは小さく身震いした。
「このまま・・・、逃げてくれないか。
俺と。」
夢うつつのままに、ロザリアはその言葉を聞いた。
「それができますのなら。」
小さく応える。
反応はない。
わかっているのだ。
それが無理なことであることくらい。
彼も。
だが、言わずにはいられなかった。
それもロザリアにはわかる。
こんな時くらい、わからないままでいられたら。
なにもわからない、そんな風でいられたらどんなに楽だろう。
だが、彼女はそうはなれない。
彼女がロザリアである限り。

寮の灯りが見えていた。
まだ百メートルほどの距離がある。
オスカーはそこで馬を止めた。
見詰め合う。
どちらからともなく唇を求めた。
重なり合う冷たい唇。
約束はできない。
何一つ。
万感の思いを込めた唇が、2度、3度と重ねられた。
離れれば再び、望むことはできないと知っている。
最後まで、二人は口を開かなかった。

翌日。
ロザリアは次期女王の宣旨を受けた。