花の咲く頃(6)

 

薄物の白いカーテンが揺れている。
透けるような軽いローン地に、裾のところにだけバラの刺繍が施されていた。
濃い青の磁器に、好みのコーヒーの香り。
ロザリアは窓際の椅子にゆったりと腰掛けて、綺麗に整えられた庭のバラ園に目をやった。
生家カタルヘナ家の敷地内に、ロザリアの両親が用意しておいてくれた彼女の館。
手入れが行き届き、館の調度、小物、食器の隅々にまで、今は亡き両親が彼女のために心を砕いてくれたことを思わせる。
現当主夫妻はこの上なく丁重に彼女を扱った。
だが前女王への慎みから、必要以上に彼女に関わり合うことはせず、それがかえってロザリアには気楽である。
穏かな午後が、今日も過ぎて行こうとしていた。
何事もない午後が。

これで良かったのだわ。
ロザリアは自分の選択を後悔はしていない。
誰にも告げずに聖地を去ったこと。
誰かと言葉をかわせば、いらぬことを口走るやもしれない。
あの地であった事はすべて夢。
彼女にとっての現実は、もうそこにはないのだから。
今や頼るべき父も母もなく、ただ一人で残る何十年かの歳月を生きて行かなければならない。
それが彼女にとっての現実だった。
甘い夢を懐かしんで、泣いて過ごすことだけで終りたくはない。
「甘いばかりではなかったのだし・・。」
口に出して、その言葉に苦笑する。
甘い夢。
それは確かに彼女を支えつづけた夢だった。
あの一瞬があればこそ、その後に続く長い孤独に耐えられたのだから。
忘れそうになる彼の腕の感触を、何度も何度も引き寄せて、自分には愛された記憶があるのだと言い聞かせつづけた。
しんと静まりかえった深夜の自室に戻る時に。
ひんやりと冷たいベッドに入る時に。
何故だかわからないけれど、無性に泣き出したい時に。
けれど、あの一瞬を知ったからこそ、その後の自制が辛かったのも事実であった。
恋をして、愛されて、そしてその先にあるものを望んではいけないと言われた。
女王の座を降りた今、その戒めは解かれたように見える。
表面上は。
だが・・・。
そうではないことを、ロザリアはよくわかっていた。

ふと、何気なく視線を放った先に、カタルヘナ家の本館から続く小道を誰かがやってくる。
何かあったのだろうか。
そう思うほどに、その人影は恐ろしく速足だ。
何かに急かされるように、どんどんこちらへ近づいてくる。
ま・・さか。
カップを持つ手が震えた。
そんなはずはない。
そう打ち消しながらも、どこかで期待している。
燃えるような赤い髪。
均整のとれたあの長身。
見間違えようもない。
あれは・・。
あれは彼女が最も会いたい男。
そして同時に、最も会いたくない男の姿だった。
それでも立ちあがっていた。
開け放たれた窓から、テラスへと足が向かう。
駆け出していた。
男も同時に駆け寄る。
薄いピンクのバラ園のちょうど中程で、二人は出会った。

抱き合う。
言葉も交わさぬままに、二人はその腕を伸ばしあった。
吸い寄せられるようにしっかりと、お互いを確かめ合う。
「ひどいことをする。」
うめくような男の声が、ようやく漏れた。
ロザリアはさらに深く、その胸に顔を埋める。
「俺がどうなるか・・・、君は考えもしなかったのか?」
顔を上げる事ができなかった。
その先にある、懐かしい薄い青の瞳に射抜かれるのが怖い。
それを見てしまえば、ようやく最後の一線を保っている彼女の理性が吹き飛んでしまう。
それはその後に続く、苦しみの始まりなのだから。
見てはならない。
けれど。
頑なに顔を上げない彼女の顎に、男の焦れたような指先がかかる。
くいと上向けさせる。
唇が、覆い被さった。
背筋にキンと衝撃が走って、ロザリアの全身から力が抜ける。
同時に必死に抵抗していた彼女の理性が、姿を消してしまった。
気がつけばその唇に応えていた。
つま先だってその腕を、しっかりと男の首に巻きつけて。

「オスカー。」
懐かしい響き。
女王に即位して以来、一度も聞くことのなかった情感のこもったその声。
名を呼ばれて、オスカーは抱きしめる腕にいっそう力をいれる。
「俺にこういうことをして、ただで済むとは君も思っていないんだろうな?」
軽口に紛らわせてはいても、語尾のきつさに本心がにじみ出る。
「このオスカーを袖にしたんだぜ?あんなひどいやり口で・・な。」
「どう・・なさるとおっしゃるの?」
「ふ・・ん。」
憎らしい恋人の濃い青の瞳をのぞきこむ。
かつてそうしていたように。
「きちんと詫びをいれてもらうのさ。俺の納得する形でな。」
切れ上がったきつい目元。
色素の薄い瞳が、ほんの少し意地悪に輝く。
「教えてやるさ。これから。
すぐにな。」
ロザリアの身体を軽々と抱き上げる。
「人が来ますわ。おろして、オスカー。」
明らかに動揺しているのに、それでも彼女はまだ気丈な態度を崩さない。
変わらない。
全く変わらない。
彼のロザリアだった。
「気にすることはない。これから先、こんなことはよくあることだ。
慣れてもらった方が早いぜ?」
そうだ。
もう、誰にはばかることもない。
彼女を得たいと思い、そしてそれに正直になって、他人からとやかく言われることなどない。
ようやく手に入れる。
欲しかった彼の幸せな時を。
もう、待つことも抑えることもやめた。
「抜け出してくる。これからも。
何があっても・・な。」

抑えてきた情熱を一気にぶつけてくるような彼の視線。
ロザリアはその腕に抱かれて館の中に運ばれながら、ただ喜びにうち震えられない自分が悲しかった。
会いたかった。
こうして彼の腕の中で、彼を感じていたかった。
ずっと、そう願っていたはずだった。
けれど同時に、怖い。
オスカーにはわかるまい。
こうして彼の愛を受容れることが、彼女に新しい苦しみを与えることになるのだということは。
それがわかっていても、やはりロザリアには拒めない。
どうして拒めるだろう。
懐かしい愛しい、赤毛のこの男を。

それがロザリアが迎えた、最後の穏かな午後だった。