花の咲く頃(7)
ぬめりとしたジェルが、背中に冷たい。
老廃物を吸いとって肌の代謝をよくするのだというオレンジ色の透明なジェルは、何度塗られても慣れることのできない気持ちの悪いものだった。
午前中にはプールに入り、800メートルほど泳いだ。
その後、こうしてたっぷり3時間程エステティックの施術を受ける。
ロザリアの日課だった。
背中に始まって、両手両足、最後に顔の手入れで終る。
気持ちの良いものだと多くの女性がうっとりするこの施術であるが、ロザリアにはただ義務でしかない。
しないでいることが不安なのだ。
あの日。
オスカーに抱かれることを受け容れたから。
あの日以来、オスカーはその言葉どおり彼女を訪ねてくるようになっていた。
時折、ふいに、彼はやってくる。
ある時は一月ぶりに、またある時は半年ぶりに。
だが彼には、そんな時間をあけているつもりはないのだ。
ほとんど毎日のように時間をとって、聖地を抜け出してきている。
これこそが、ロザリアの一番恐れていたことだった。
彼の1日は、ロザリアの半年。
もしくは一年。
もっと長い時間のときさえある。
その間に、ロザリアの身体は老いてゆく。
少しづつ確実に。
毎日一緒に過ごしていれば、そんなに気にはならないわずかづつの衰えであっても、半年、一年と時間をあけて眺めれば、急に老けこんだように感じられるのではないか。
ロザリアは、身震いするような思いであった。
彼女も聖地に長くいた身であれば、自分の年齢はもうすっかり定かでなくなっていた。
女王候補としてあの地に召喚された時、あの時には確かに17歳であった。
けれどそれ以降は。
自分が一体幾つになったのかなど、考えることはなかったし、考えないようにしていた。
下界の時間の流れで自分の年齢を考えることは、空恐ろしかった。
父や母、友人、知人、所縁の人々と、どんどん離れて行く自分の時間。
突き詰めて考えるのは孤独と向き合うことだった。
だから、彼女はそれをしなかったのだ。
だが、今はその作業をしなければならない。
望むと望まざるとにかかわらず、彼女とその恋人との間には、くっきりと境界を仕切る川が流れている。
川の向こうとこちらがわでは、時間の流れる速さが違う。
速く流れる岸にいて、老いと死とを恐れながらけっしてそれを口に出せない苦痛。
口に出して、彼に何ができようか。
彼が守護聖である限り、自分の意思で聖地を完全に去ることは無理な話なのだから。
重いため息をついて、ロザリアは全身を映す鏡に向かう。
エステの施術を受けた後の身体は、全体に上気してつるりとしていた。
白いバスローブの襟元からのぞく胸元には張りがあり、顎の線もすっきりと引き締まっていた。
頬に手を当ててぷるんとした弾力を確かめながら、ロザリアはそれがなくなり崩れてゆく日を恐れていた。
「いつまで・・・・もつかしら。」
「どうした。うかない顔だな。」
午後の陽射しがやわらかく、オスカーの赤い髪を明るく照らし出していた。
ロザリアにとっては半年ぶりに会う彼であったが、華やかで甘い容貌は全く変わりがない。
「俺に・・愛想がつきたのか?」
思ってもいないことを口にしているのがありありとわかる。
薄い氷のようなきつい瞳が、からかうような挑発的な色を浮かべてロザリアをのぞきこむ。
「微笑むのも嫌になるほど、俺を嫌いになったか?」
「そんなこと・・・。」
弱く微笑んで、ロザリアは席を立つ。
「お茶を用意いたしますわ。」
これ以上彼の視線に、耐えられなかった。
口実は何でも良かった。
とにかく彼の至近距離にいることだけは避けたくて、ロザリアはソファから離れる。
「お・・っと。」
ぐいと手首がつかまれる。
オスカーはそれをそのまま引き寄せて、ロザリアの身体をすっぽりと自分の胸の中に抱き収めてしまう。
「逃がさないぜ?」
薄い笑いを浮かべた唇の端。
「返事はどうした?俺のお嬢ちゃん。」
ふざけた調子で口にする、懐かしい呼称。
初めてそう呼ばれた時の、馬鹿にされたような不快感。
そしていつのまにか、そう声がかかるのを待っていた、あの頃の事が甦る。
ロザリアの口元に笑みが浮かぶ。
「馬鹿・・。もう、お嬢ちゃんなんていませんわ。」
「そんなことはない。
いつだって君は、俺のお嬢ちゃんさ。
ただ、そんな風に呼ぶと、こういうことができなくなる。」
いきなり唇がふさがれた。
もう何度も重ねられ、ロザリアのすべてを知り尽くした彼の唇。
うっとりと陶酔に導かれる。
もっと・・・、このまま。
そう思う頃合に、彼は唇を離す。
「あ・・・。」
思わずロザリアが声を出す。
「どうした?」
知っているくせに意地悪な問い。
「ん・・・?どうした?」
切れ長の目元、男にしては長いまつげの一本一本がはっきりと見て取れるほどの距離にまで、彼はロザリアに顔を近づけている。
ふ・・と、ロザリアは我に返った。
明るい午後の陽射し。
ロザリアの顔も、彼にははっきり過ぎるほど見えているに違いないのだ。
「は・・なして。」
小さく抗って、ロザリアは彼の胸を押しやった。
「何をすねている?」
声の調子には、まだたっぷりと余裕があった。
「離して!」
半ば悲鳴のような声に、ようやくオスカーは腕を解く。
呆気にとられたように、ロザリアを見つめていた。
「どうしたんだ?」
逃げるように彼の傍を離れた。
背を向けたまま、ロザリアは自分の身体を抱きしめる。
「昼間・・・昼間は困りますわ。」
「何を言ってる?今更・・・。」
おかしそうにオスカーが笑う。
「本館への憚りもありますわ。昼日中から、このようなこと・・・。
わたくしにも、体面というものがありますもの。」
表情が読み取られぬように、ロザリアは彼に背を向けたままであった。
嘘吐き!
自分で自分を詰る。
体面など、考えてもいないくせに。
だが、この方がずっとマシだった。
虚栄心の強い女だと思われる方が。
明るすぎる陽射しの下で、彼女の衰えを彼に見つけられることに比べれば。
ずっと。
「ふ・・ん。」
オスカーは、さして堪えた様子もないようだった。
「夜中の逢瀬か・・。
それも悪くはない。
君がそう望むなら、そうしよう。」
ロザリアの身体が背後から抱きしめられる。
耳元に顔を埋めるようにして、彼は続けた。
「だが・・・、今日は特別だ。
まさか、このまま帰れとは言わないだろう?」
低く甘い声。
慣れ親しんだ彼の香りが、ロザリアを包む。
抗えない。
ロザリアは目を閉じた。
いつまで、続けられるのだろう。
そう心でつぶやきながら、ロザリアは体の力を抜いた。
いつものとおりの朝。
何も変わらぬ、どうということもない朝だった。
ロザリアはバスルームに向かい、朝の身支度をする。
ふ・・と目を上げて、凍りつく。
大きな鏡に映る女の顔。
これが自分だというのか。
神経質そうにイライラした、中年にさしかかった気配の顔。
頬と顎の境目に薄い染みが浮いていた。
震える指でそれに触れ、思いっきりこする。
とうとう。
とうとう来てしまった。
怖れていたこの日が。
左手に持っていたシャワーを全開にして、鏡に映る自分の姿を隠す。
勢い良くたたきつける湯と蒸気が、彼女の姿を溶かして流した。
ゆるゆると流れ落ちる湯の後に、惨めに泣き崩れるロザリアの姿が歪んで映っていた。