萱葺きの城(17)
どうしてこんなに腹が立つのだろう。
聖殿を後にしたロザリアは、そのまま自分の部屋へ帰る気がしなかった。
気分が波立っている。
こんな時彼女の気分を静めてくれたシュプリーム号は、もういない。
苛立つ気分のまま、彼女の足は自然森の奥の湖へと向かっていた。
ほんの少し前までシュプリーム号とよく出かけた、あの静かな湖へ。
馬道を避けて、小道を進む。
冬とは思えぬ暖かい陽射しが、樹木の合間を縫って彼女の周りにこぼれかかっていた。
ちらちらと動く木漏れ日の陰影。
小鳥の声。
まるで楽園のような環境だった。
なんて嘘臭いのだろう。
ロザリアは皮肉な笑いを噛み締める。
聖地に来たばかりの頃には素直に感嘆できたこの風景が、今の彼女にはすべて虚しく見える。
この環境が誰によって保たれているのか。
この環境の影で、どのような忍耐を強いられているか。
そのすべてを知ってしまった今では、この地が穏かで幸福そうな環境であればあるほど、それがかえって彼女には虚しく感じられてしまう。
「可愛くないわ・・。」
ぽつんとそうつぶやいて、ロザリアは空を見上げる。
透き通った清浄な空気が、何処までも抜けるような青い空をより高く見せていた。
偽りの幸福な楽園であっても、やはりそれは美しい。
引き換えにした女性の幸福の量だけ、きっと美しいのだろう。
森の出口が近づくと、水の匂いがする。
シュプリーム号が喜んで駆け出した、あの清らかな水の匂いだった。
それを思い出しながら、ロザリアはそのまま森を抜ける。
そして、出口で凍りつく。
「オリヴィエ・・・さま。」
もう何日も会っていないような気がするその人の名を、気づかぬうちに唇がつぶやいていた。
ロザリアがオリヴィエに気づくとほぼ同時に、オリヴィエの方も彼女に気づいていた。
湖の入り口の微かな人の気配。
恋の直感は恐ろしい。
オリヴィエは彼女の姿を見る前に、その気配が誰のものであるか、はっきりと分かっていた。
入り口の茂みに、凍りついたように動かないロザリアの姿。
謁見の間で先ほど遠目に見たはずの姿であるのに、なぜだかとても懐かしかった。
ゆらりと、オリヴィエが立ちあがる。
びくりと身体を震わせて、ロザリアがきびすを返そうとした。
「待って!」
思わず、オリヴィエは叫んでいた。
ロザリアの足が止まる。
その背の頼りなさ。
彼女の内心の不安と戸惑いが、感じられた。
「会えるんじゃないかと思ったんだよ。
ここに来れば・・ね。
やっぱり、当たったね。」
震えそうになる声を、オリヴィエは無理に抑え付けた。
彼女に拒まれることが、怖かった。
あの夜のように、また。
ゆっくりと、彼女の傍に近づく。
逃げ出されるのを怖れるように、ゆっくりと、用心深く。
「言い訳を・・・させてもらえないかな。
ロザリア。」
反応はない。
けれど逃げ出すわけでもなかった。
ただ黙って背を向けて、身動き一つしない。
「何から話したらいいんだろう。
おかしいね、あれからずっと考えていたんだけどな。」
あれから・・。
その言葉が指す時の記憶が、二人の間の空気を重くする。
「こっちを向いてくれないか?」
お願いだから拒まないで欲しい。
オリヴィエの心の叫びは、言葉には現れない。
それでもロザリアには伝わったのだろうか。
顔を俯けたままではあったけれど、ゆっくりとその身をオリヴィエの方へ向け直した。
伏せられた長いまつげが、目元に陰を落としている。
その下に隠された青い瞳の表情が、見たかった。
彼を受容れてくれていた、あの優しい表情を。
「ずっと・・・・、長いこと、探していたような気がするんだ。」
オリヴィエの静かな声が、ロザリアの頭上から降って来る。
それが嘘のない素直な告白だということは、本能的に察せられた。
「探して?」
その言葉が、ロザリアの顔を上げさせた。
何故だか彼女の心に引っかかる。
心がザワザワとした。
「何を探していらしたのですか?」
「ん・・・。
上手く言葉にできないんだけれどね、あえて言うなら、そう・・・、帰るところかな。」
泣いているような、笑っているような、不思議な表情でオリヴィエは応える。
「わたしの居る場所。
居るべき場所・・・・。
やっぱり上手く言えないな。」
首を振って、オリヴィエはため息をついた。
こんなことで、ロザリアにわかれと言うのは無理だろう。
「帰るところではなかったのですか?
・・・・今までの方は?」
ためらいがちに返されたロザリアの返事に、オリヴィエは目を見開く。
通じたのか?
彼の言いたいことは?
内心の動揺を隠しきれない、不安定な揺らぎを映した青い瞳が、オリヴィエの視線をそれでも正面から見つめ返していた。
「どうしてわかりますの?」
「鍵がね、いるんだよ。」
オリヴィエの声が少しだけ軽くなる。
「鍵?」
「そう。
お城の中に入る鍵。
みんな、鍵なしで入ることはできなかったんだ。」
城の中に入る鍵。
それがどういうことなのか、ロザリアにはなんとなくわかるような気がする。
彼女にもそういう思いがあった。
幼い頃からずっと、他人には言わずにいたけれど。
「わたしの父はね、辺境の・・本当に小さな裁判所の職員だったんだよ。
子供たちを主星の法曹界に出すのが夢でね、わたしの兄もそれからわたしも、それぞれその関係の学校に進ませたのさ。
だけど・・、わたしには合わなくてね。
本当に嫌だった。
だからなんとかしてそれ以外の道で、食べていこうと思ってたモンだよ。
その頃読んだ本のことは、もうほとんど忘れてしまった。
けどね、一つだけ変に頭に残ってることがあるんだ。」
オリヴィエは過去のことを話すのを極端に嫌う。
外界と時間を異にする、特殊な環境で生きることを思えば、多くの守護聖が時間と共に自分の過去について無口になっていくのは自然のことであったろうが、それにしてもオリヴィエは全くと言っていいほどにその過去について話すことは無かった。
それだけに今彼が口にしようとしている事は、おそらく聖地中の誰にも話していないことだと思われた。
ロザリアは黙って、彼の次の言葉を待つ。
「いかな極貧の者でも、自分の小屋の中では、国王のあらゆる力に挑むことが許される。
その小屋は萱葺きでもろく、屋根はきしみ、風は入りこみ、嵐は吹きこみ、雨水も入りこめる。
だが国王の力は、この荒れ果てた、あばら家の敷居をまたぐことを許されない(注:1)。
・・・たしかこんな文句だったよ。」
歌うような口調でそう諳んじてみせたオリヴィエが、ようやくロザリアに笑いかけた。
「あんたにはわかるかな?
これはプライヴァシーの保護をうたった文句なんだよ、もともとはね。
でもわたしには違う意味にとれたんだ。
国王はおろか、あばら家の城には誰も入ることができない。
一人、主人の許しのある人間を除いては・・・・。」
息を詰めてロザリアは彼の顔を見つめる。
ロザリアの中にある思いが、今オリヴィエの口から言葉になってこぼれ出していた。
城。
あばら家の城。
彼女の中にもそれがあった。
血のつながった両親はおろか他の誰にも、門を固く閉ざし開ける事のなかった心の中の城。
「そこにね、ごく自然に住める人ができたとき、わたしには帰るところができるんだ。
たとえ何があっても、満ち足りた生をまっとうできる・・・。
そんな風に、ずっと思っていてね。
だから・・探したんだよ。
そこに住む人を・・ね。」
心のすべてを吐き出してはみたものの、オリヴィエは不安だった。
彼の真意はどうであれ、今までの彼の行動が正当化されるわけではない。
ロザリアにとってみれば、ただの言い訳にしか聞こえないのではないか。
だが、そう怖れる一方で、ロザリアにはわかるという思いがあった。
彼の告白に耳を傾けている彼女の様子。
なによりも、彼女は唯一の人間なのだから。
彼の城に鍵なくして入りこめる、唯一の。
「許して・・くれないか。わたしを・・・・。」
祈るような思いで、オリヴィエはそう口にした。
*(注1)「極貧な者でも、自分の小屋の中では、国王のあらゆる力に挑むことが許される。その小屋は萱葺きでもろく、屋根はきしみ、風が入りこみ、嵐は吹きこみ、雨水も入りこめる。だが、イギリス国王の力は、この荒れ果てた、あばら家の敷居をまたぐことを許されない。」
18世紀にイギリスの国会議員で、後に首相になったウィリアム・ピットの言ったことば。
「城の法理」といいます。