萱葺きの城(6)

「ねえ、やっぱりレースに出てみたいわよね・・・。」
今週になって何度目かの同じ問を、ロザリアは投げかけた。
シュプリーム号は不思議そうに首をかしげて、彼女を見つめ返している。
すっかり彼女を信頼しきった彼の無垢な瞳を見ていると、ロザリアは自分がとても我侭なことをしているような気がして嫌になる。
平日は彼と遠乗りに出かけることはできない。
女王候補としての一日のスケジュールは思いの他ハードで、すべての予定が終って寮へ帰る頃には、遠乗りに出かけるだけの余力は残っていない。
仮に残っていたとしても、次の日のためにしておかねばならないことはいくらでもあり、夜中過ぎまで眠れない毎日であれば、自然遠乗りは週末だけの息抜きになってしまっていた。
それでも彼女はこうやって、寮へ帰る前には必ず彼に会いに来ていた。
「おまえは強い・・。
きっと強い馬なんだものね。」

昨夜、彼女はカタルヘナ家の牧場に連絡をとった。
レース用の調教師に、シュプリーム号の適性を聞くためである。
応えは予想どおりのものだった。
シュプリーム号は文句のない競走馬であり、調教次第では大きなレースを狙えるであろう。
彼の返事は明快だった。
但しそれは、今すぐにシュプリーム号をレース用の厩舎に入れた場合のことだ。
3歳の新馬戦は既に始まっており、来年春の大きなレースを目標にするならば、一刻も早く競走馬としての調教をし直さなければならない。
迷うことなく調教師は、そう言い切ったのだった。
ロザリアがこうしてぐずぐずと一日延ばしにしている間にも、シュプリーム号の可能性はどんどん目減りしてゆく。
それがわかっていながらも、彼女はきっぱりと思い切ることができないでいるのだ。
「わたくしは酷いことをしているのよね。」
最近少し色の濃くなった栗色のたてがみに、彼女は指を絡ませる。
柔らかくて温かい、彼女の馴染んだ感触が切なかった。
「おまえがいなくなったら、わたくしは本当に一人になってしまうんですもの。
それでも・・・・、おまえのために我慢しなくてはいけないのでしょうね。」

「無理することないんじゃない?」
思いもかけない背後からの声。
弾かれたようにロザリアは振り返る。
「オリヴィエ・・さま?」
夕刻の赤すぎる陽射しが逆光になっていて、ロザリアの方から見られる男の半身は暗く影になっていた。
それでもスッキリとした長身や、ひらひらとした派手な衣装は他の者のそれではない。
厩舎の戸口に斜めに寄りかかっているのは、まさしく夢の守護聖オリヴィエであろう。
見られていた!!
ロザリアは狼狽した。
誰にも見られたくない自分の姿であった。
羞恥と怒りで顔が赤くなる。
「いつからそこにおいでになったのですか?」
とがめるようなロザリアの問を、オリヴィエは無視する。
床に散らばった寝藁をかさかさと踏みしめて、彼はシュプリーム号の前で立ち止まった。
「これが噂の馬なんだ?
なるほど・・、綺麗な馬だね。」
「オリヴィエさま!」
「自分を必要としてくれる人の傍にいるのは、そんなに不幸なことではない。
わたしはそう思うよ。」
まだキツイ目で睨みつけているロザリアの方には向かないで、オリヴィエはそう言った。
「もし・・、この仔が選べたら、どうしただろうね?
レースに出たいと言ったかな。」
「それは・・。
わかりませんわ。
この仔はレースを知らないし、いいえ、レースどころかわたくしといっしょの世界以外なにも知らないのですもの。」
弱々しく視線を落としたロザリアの顔を、オリヴィエの深い青の瞳がひょいと覗き込んだ。
「そう。
誰にもわからないんだよ。
だから、あんたが必要以上に自分を責めることなんてないんだ。」
膝を曲げた中腰の姿勢で、オリヴィエはロザリアの顎に指をかける。
指先にすりこんだウッディー系の香りが、ロザリアの鼻腔をくすぐった。
「何を言われても、あんたはあんた。
あんたが必要なら無理することなんてないんだ。
無理ってね、美徳だって思ってる人もいるようだけど、わたしはそうは思わない。
笑って生きるのってとっても大変だろう?
あんたは特にそうみたいだからね。」
「オリヴィエさま」
「あ~あ。
とんだお節介を言ってしまったな。
ま、これも所詮は私の意見だからね。
さっきも言ったけど、アンタはアンタの思うようにしたらいいんだ。
気にしなくっていいからね。」
すっと指を引く。
と同時に、オリヴィエは腰を伸ばして姿勢を元に戻した。
7センチはあろうかというヒールのせいで、自然ロザリアは彼を見上げるように振り仰ぐ。
言いすぎたと思うのか、オリヴィエは少し憮然とした表情をしている。
ロザリアが初めて見る生のオリヴィエの顔だった。
「あの・・、オリヴィエさま・・。」
言いかけた言葉を封じるようにオリヴィエはいつもの笑顔に戻った。
執務室で彼女を迎えるときのものである。
「ちょ~っと、オスカーに頼まれててね。
あんたのこと気にしてたんだ。
それだけだよ。」
「オスカーさまが?」
「そ。
だから柄にもなくお節介やいてしまったんだ。
けど、やっぱりわたしには似合わないことだったね。」
触れ合った心が離れてゆくような心細さを、ロザリアは感じていた。
オスカーに頼まれたから、オリヴィエは彼女に声をかけたのだ。
今言ってくれたことも、オスカーの言った言葉のフォロウなのだ。
何でもないことだ。
彼女は女王候補なのだし、彼らは女王に仕える守護聖なのだから。
彼女の精神のバランスをとることも彼らの仕事の一つなのだろう。
性懲りもなく、まだ他人になにかを期待しているのか!
ロザリアは自分の愚かさに腹がたった。
「お気遣い、おそれ入ります。
わたくしは大丈夫ですわ。」
狼狽も羞恥も既に彼女の顔からは消えていた。
いつもと同じ濃い青の瞳に敬意と慎みをこめて、オリヴィエを見つめ返す。
オリヴィエは相変わらず華やかな笑顔を浮かべていたが、その青い瞳だけは探るように彼女の顔を見つめていた。
だがそれもホンの一瞬のこと。
すぐに肩をすくめて鼻先でふんと笑い、すべての表情を消してしまった。
「じゃあね。」
来たとき同様バランスの良い歩き方で、オリヴィエは足場の悪い厩舎を後にした。

ロザリアは一人残された。
青い顔をした彼女を、シュプリーム号が気遣わしげに覗きこむ。
伸ばされた彼の首にそっと手をかけながら、ロザリアは弱々しく微笑んだ。
「大丈夫。
大丈夫よ。
なんでもないわ。」
そう、どうということはない。
ただ無防備な状態で近づいてこられたために、彼女の心が揺れただけ。
すぐに平静に戻る。
じっとシュプリーム号とこうしていれば。
けれどこのままではいけない。
それもよくわかっている。
このまま彼に甘えていることは、優秀な彼の未来を狭めてしまう。
負い目をもったまま彼に甘えることは、彼女の誇りが許さない。
結局いつの日にか、彼女は彼を手放すだろう。
それならば今。
今ならばまだダービーに間に合う。
競走馬の最高の栄誉、ダービー馬の称号を得ることも今なら可能なのだ。
「シュプリーム・・。
決めるわね。」
大きな黒い瞳がじっと彼女を見つめている。
「明日、牧場にお帰りなさい。」
ロザリアは彼の顔を見ることができなかった。
それだけ言い残すと、逃げるように厩舎を後にする。
その背にシュプリーム号のいななきが、しばらくの間追いかけてきていた。

翌日の早朝。
カタルヘナ家からシュプリーム号の搬送用のトラックが、聖地に到着した。
靄のかかった明け方の空気は冷たく、引き綱で引かれるシュプリーム号の息が白い。
何が起こるのかわからない彼は、不審げに何度も何度もあたりを見回している。
ロザリアの姿を見つける。
問いかけるように小さくいなないた。
唇を引き結んで凍りついたように動かない彼女の姿に異変を感じたのか、シュプリーム号は急に激しく抵抗し始める。
引き綱を振りきろうと、首を思いっきり上下に動かした。
4本の脚も、一歩たりとも前へ動かさない。
まるで吸盤がついたかのように、てこでも動かぬ構えである。
「お嬢さま、何とかしてください。」
牧場の厩務員が、必死で引き綱を引き絞りながら悲鳴を上げた。
「シュプリーム!
だめよ!」
ぴしりとした命令。
ロザリアが滅多にすることのない、きっぱりとした厳しい命令の口調だった。
途端、シュプリーム号の抵抗が止んだ。
驚いたように彼女をじっと見つめている。
ロザリアはなにも言わない。
厩務員がシュプリーム号をトラックに運び入れた。
彼は、まだロザリアをじっと見つめている。
ドアが閉められる。
鍵が下される。
その瞬間、ロザリアが叫んだ。
「待って!!」
駆けよってトラックの鍵を開ける。
「これを。
これをこの仔の馬房につけてやって。」
取り出したのはりんごのおもちゃ。
真新しい赤いフェルトでできていた。
「元気で帰ってくるのよ。
けっして怪我なんかしては駄目よ。」
語尾が少し震えていた。
だが涙を見せるわけにはいかない。
奥歯をぐっと噛み締めて、彼女は突き上げてくる感情の高まりを抑えた。
「行って。」
やっとそれだけの言葉を搾り出す。
厩務員は深く頭を下げて、ドアに鍵をかけなおした。
「お預かりいたします。」
聖地に不似合いな大型車両が、図体に似合いの大きな音を立てて門から出ていった。

見送るロザリアの頬に、ようやく涙が一筋伝っていた。