萱葺きの城(7)
「それではオリヴィエさま、よろしくお願いいたしますわ。」
午後一番で育成の依頼に来たロザリアが、いつものように綺麗なお辞儀をして退室した。
業務用の笑顔で見送ったオリヴィエは、ドアが閉まると同時に眉間にしわを寄せた。
どうかしている。
気になって仕方ないのだ。
二月前、厩舎でロザリアの見てはならない姿を見て以来、オリヴィエは自分が急激に彼女を気にし始めていることを感じていた。
あれは、本当に偶然だった。
見る気はなかったのだ。
あんなに弱々しい裸のロザリアを、見る気は本当になかった。
だから一度は知らぬ顔をして、やり過ごそうとも思った。
けれどできなかった。
彼女の背中が泣いているのがわかったから。
彼女は声を上げて泣くことを自分に許していないのだ。
もしかしたらそうやって感情を開放することを、知らないのかもしれない。
それは、他でもない、彼自身の姿によく似ていた。
彼もまた、泣くことを自分に許さずに生きてきたから。
気がついたとき、彼はロザリアに声をかけていた。
そして彼の本心を漏らしていたのだ。
自分でも思いもかけぬ行動だった。
だからその後、彼女が気になって仕方ない自分自身に、オリヴィエはイライラしている。
それにしても、ロザリアはたいしたものだ。
あれほどの執着を持っていた馬を手放した後でさえ、いつもの毅然とした姿勢を崩さない。
他のものには全く気取られぬほど、彼女の様子は自然だった。
オスカーでさえ拍子抜けしたように言ったものだ。
「俺の考え過ぎだったのか?
ロザリアは案外あっさりしているな。」
そうではない。
彼女は最愛のものと離れた痛手を、外に見せることができないのだ。
それは彼女の誇り高さでもあり、同時に不器用なところでもある。
わかれと言う方が無理なのかもしれない。
だが、オリヴィエには見える。
平静にいつもどおりの姿を保つその裏で、ロザリアがどんなに不安な思いをしているか。
唯一の泣ける場所であり、相手であったあの馬を手放した今は、彼女には心を許して泣く事も許されないのだ。
見えすぎてしまう。
これが彼を苦しめる。
他人の心の闇に共鳴しやすい彼の心は、時として厄介な状況へ彼を追い込んでゆく。
だから彼は意識して、他人との距離をとろうと努力しているのだ。
にも関わらず、厄介ごとは向こうからやってくる。
ロザリアにこれ以上興味をもつのは危険だ。
彼はよく知っている。
自分には彼女に近づく資格がないのだから。
これ以上彼女にはっきりと惹かれる前に、彼女と距離を置こう。
そう決めてみたものの、それが無駄な抵抗であることも、オリヴィエは何処かで感じていた。
決めたとおりに心が動くはずもない。
そうであれば、どんなに生きやすいことだろうと。
明日は休日という、週末のある夜。
オリヴィエは私邸の自室で外出の支度をしていた。
超過勤務。
オスカーがそう呼んだ、オリヴィエの週末の予定のためである。
いつものことで、もう馴れているはずなのだが、最近ではこの予定が少々重い。
着替えて出かけるのも億劫なほどだ。
長いため息を一つついて、のろのろと着替えに袖を通そうとしていると、庭先でばたばたと大きな音がした。
「つう・・。」
抑えた声が闇にとける。
途端オリヴィエの動きが機敏になった。
バルコニーへ飛び出る。
やはりそうだ。
門の内側に座りこんで足首を押えているのは、ロザリアだった。
精一杯人目をしのんだつもりだろう。
いつもなら決して彼女が身につけないような軽装で、ご丁寧に帽子の中に長い髪を隠してさえいる。
それまでの憂鬱が吹き飛ぶような出来事だった。
思わず口元に笑いがこみ上げてくる。
「どうしたのかな、こんな時間に?
わたしに会いたくて、こっそりしのんできてくれたのかな?」
はっとバルコニーを見上げたロザリアの顔は、きっと赤く染まっていることだろう。
夜の闇に隠れるように、彼女はすぐに顔を伏せた。
「そこにそのままいるんだよ。
足をくじいているようだからね。」
そう言い置いてオリヴィエは室内に消えた。
そして五秒も経たぬうちに、玄関まで駆け下りている。
息を整える。
思いもかけないハプニング。
うきうきしている自分に苦笑した。
玄関のノブに手をかける。
そこでほんの少しだけ勿体をつけた。
今更遅いよ。
自嘲気味にそう思いながら、それでもなんとか余裕を取り繕ってドアをゆっくりと開ける。
門前を照らす薄暗い灯りの下に、ロザリアはうずくまっていた。
顔をあげることもできないほど、恥じているようだった。
こんな時間に他人の、しかも男の屋敷に忍び込んだ挙句に見つかったのだ。
身の置き所もないだろう。
オリヴィエはつかつかと彼女に近寄った。
ロザリアはうつむいたまま身を固くする。
彼女の前で足を止めたオリヴィエは、そのままの勢いで彼女をひょいと抱き上げた。
腕の中でロザリアが抵抗する。
「オリヴィエさま!
下してください。」
「ああ、もうウルサイね。
じっとしておいで。
抱きにくいからね。」
笑いを噛み殺すために、オリヴィエの口調はぞんざいなものになった。
それを彼の怒りととったのか、ロザリアは抵抗を止めた。
彼の腕の中でしゅんとしている。
その様子がかわいらしくて、オリヴィエの笑いを誘う。
ロザリアはますます身を固くして、恥じ入るように小さくなっていた。
「さて、これで大丈夫。
今夜少しはれるかもしれないけど、明日にはひいてるだろうね。」
オリヴィエは湿布薬をたっぷりと塗りつけて、包帯で彼女の足首をクルクルと巻いた。
「はい・・。
ありがとうございます、オリヴィエさま。」
相変わらず俯いたまま、ロザリアは小さな声でそう応えた。
「それで?」
ロザリアの足下に座りこんだオリヴィエが、そのままの姿勢で彼女を覗き込む。
「どうしてここにいるんだい?
訳を聞かせてくれるんだろう?」
ロザリアは唇を噛み締めて身を固くする。
「おやあ、だんまりなのかな?」
おおよその見当はついているくせに、オリヴィエは意地悪をしている。
素直に反応するロザリアがかわいらしくて、ついいじめてみたくなる。
彼女の格好を見れば、聖地をこっそり抜け出そうとしていたことくらい見当はつく。
そしてそれが何のためかということも。
「明日は下界では日曜日だね。」
白状しやすいように誘い水をまいてみる。
ロザリアの顔がようやく上げられた。
濃い青の瞳が困惑したような表情を浮かべていた。
「見逃してくださいませんか、オリヴィエさま。」
「何を?」
本当に意地悪だ。
「わたくし・・、外に出たいんです。
明日の夕方には必ず戻ります。
だから・・。」
「ん、でもどうやって出るつもりだったんだい?」
「このお屋敷の奥に、森の湖へ続く道があるそうですわね。
そこに、外界との結界の壁が破れているところがあるって・・・。」
どうやらゼフェルあたりから聞き出した情報だろう。
あのお子様守護聖たちが、時々外界へ遊びに行っている事はオリヴィエも知っていた。
「裂け目が、わたくしには高すぎる場所にあるので、多分時間がかかると思うんです。
だから今夜のうちに抜け出してしまおうと・・・。」
「おやおや。
大胆なことを考えるお嬢さんだねえ。」
「必ず夕方までには戻ります。
だから・・!」
必死の形相で青い瞳が訴える。
「でもね、今夜抜け出すのはちょっとまずいんじゃないかな。
明日の朝、あんたがいないことをどうやって取り繕うつもりなんだい?
大騒ぎになるよ。」
「それは・・。
ベッドに寝ているように見えるよう、クッションをたくさんつめてきてますわ。」
あまりに幼い仕掛けに、オリヴィエが声を立てて笑った。
「ばかだね。
それでばれないと本当に思ってるの?」
「お叱りは、受ける覚悟でしたわ!」
自尊心を傷つけられたのか、ロザリアがぷいと顔を背ける。
「そんなことをしなくっても良いよ。」
「え?」
「今夜はこのままお帰り。」
自分でも信じられないほどの優しい声だった。
多分、表情も。
「レースは何時?」
「オリヴィエさま・・。
ご存知だったのですか?」
「アンタがこんな無茶なことするんだ。
他に理由はないだろう?」
青い瞳がこぼれそうなほど、大きく見開かれていた。
とても信じられないという表情。
「で、何時なんだい?」
「出走は二時ですわ。」
いまだ驚きを収めきれない様子のまま、ロザリアは口にする。
「3歳チャンピオンを決める重賞レースですの。」
少し自慢げな響き。
「そう。
順調に勝ってるんだね。
だったら、王立競馬場だね。」
オリヴィエの相槌はとても優しい。
「ここを十一時に出れば間に合うな。」
「え?」
オリヴィエはにっこりと笑う。
「連れてってあげるよ。」
「でも・・」
「守護聖だってね、たまにはお忍びってヤツをするんだよ。
競馬場だってそのうちの一つさ。」
「オリヴィエさま」
「だから、今夜はお帰り。
明日、十一時にここへおいで。
しっかりめかしこんでね。」
おどけた軽いウィンクを一つ。
オリヴィエはすっと立ち上がった。
「送っていってあげたいけど、この後ちょっと用事があってね。
うちのものに送っていかせるよ。」
ほんの少し、オリヴィエの表情が曇る。
この後の用事。
それが彼にそんな表情をさせた。
「いいえ、大丈夫ですわ。
そんなことをしていただいたら、今夜わたくしがここに来たことがわかってしまいますもの。
わたくし、一人で帰ります。」
ロザリアは気丈に立ち上がった。
くじいた足首は痛んでいるはずなのに。
それでもオリヴィエが差し出した好意が、余程嬉しかったのだろう。
ロザリアは本当に晴れやかな笑みを浮かべている。
「オリヴィエさま。」
「ん?」
「・・・。ありがとうございます。」
一瞬、オリヴィエは言葉を失った。
ありがとう。
感謝の言葉など珍しくもない。
それなのに、彼の心は敏感に反応するのだ。
綺麗な晴れ晴れとした笑顔で、ロザリアの口から漏れたその言葉が、彼から言葉を奪った。
「オリヴィエさま?」
「ああ、ごめん。
ん、気にしなくっていいって。
わたしも競馬場は久しぶりなんだ。
たまには良いかもしれないからね。」
それを聞いて、ロザリアがもう一度微笑んだ。
素のままの、気取りのない笑顔。
オリヴィエは思わず目を逸らす。
「早く、お帰り。
人目についてしまうよ。」
一人で帰ると言い張るロザリアに、オリヴィエは見送りをつけることを頑として譲らなかった。
足を引きずって彼女が夜道を帰る姿など、想像するだけで耐えられなかったのだ。
彼女を乗せた地上車が見えなくなるのを確認してから、オリヴィエは自室に戻る。
既に外出する気は失せていた。
明日、ロザリアと出かける。
そのことで頭はいっぱいだった。
「断らないとね・・。」
重いため息と共に、オリヴィエは映像つきの電話機の前に立つ。
受話器を取ろうとして、ためらう。
映像送信のスイッチをオフにした。
重い気分で受話器を上げる。
「ああ、わたし・・。
悪いけど、今夜の予定、キャンセルにしてくれる?」
ホンの数秒で済んだ電話だった。
けれどオリヴィエはひどく暗い気分になる。
ロザリアに惹かれ始めている。
一体自分にその資格があるのかと。