萱葺きの城(8)

 

王立競馬場のロイヤルボックスは、ロザリアにとって初めて足を踏み入れる場所だった。
彼女の父の持っているボックスシートも、馬主専用のそれなりに豪華な仕様のものであったが、このロイヤルボックスとでは比較にならない。
先ず景観が違う。
扇状に突き出た全面ガラス張りの観戦席は180度の視界を誇り、楕円のドーナツ状のコースをくまなく見渡せた。
しつらえてある椅子もどっしりとした座りごこちの良いもので、傍のテーブルには観戦用に銀のオペラグラスが用意されている。
優雅にカーブした取っ手と、繊細なペイズリーの彫刻が施されたそれは、見るからに高価な特注品である。

「少し間があるみたいだね。
お茶でもどうかな?」
観戦席から離れたリヴィングには、ティーセットと綺麗に盛り付けられたサンドウィッチが用意されていた。
オリヴィエは銀のティーポットを手に持って、手ずからお茶を淹れるつもりのようである。
「ええ。
いただきますわ。」
こういう時に淑女は女王のように振舞うもの。
紳士のサーヴィスに優雅な微笑で応えれば良い。
それは、幼いときから叩きこまれた社交場での立ち居振舞いだった。
ロザリアはごく自然に実践する。
リヴィングにしつらえてあるソファに浅く腰をかけると、ロザリアはオリヴィエの差し出すティーカップを受け取った。
受け皿の縁が波型に細工された、およそ実用的でない薄い磁器のティーカップは、この気取りかえった部屋に良く似合っている。
香りの良い湯気の向こうに見えるオリヴィエも同様だと、ロザリアは微笑する。
艶のあるシルバーグレイの盛装姿。
ポケットチーフにタイに手袋。
申し分のない競馬観戦用の紳士の姿だった。
スッキリとした長身にその姿はとても良く似合う。
このボックスに入る前、彼の姿を何人の女性が目で追っていたことだろう。
普段の彼の姿を知るロザリアには、その変身ぶりがとてもおかしかった。
「ん?
どうかしたの?」
自分用にもう一杯、紅茶を注ぎながら、オリヴィエは目の端で捉えたロザリアの微笑に反応した。
「いえ、大したことではないのですわ。
ただ、オリヴィエさまがあんまりいつもと違っておいでなので。」
「ああ。これかあ。」
両腕を大きく広げて、オリヴィエは自分の服装を眺める。
そして肩をすくめて笑って見せた。
「お忍びってさ、TPOに気を遣うんだよ。
いつもよりずっとね。
なるべく目立たないように、普通に。
ごく普通にってね。」
確かにいつもの派手な衣装よりは普通といえる。
だが彼の場合、どんなに努力しても普通ではありえまい。
紳士の盛装、ごく普通の格好をしていても、それがかえって彼の華やかな美貌を引き立てる。
ただ彼が立っている、歩いている、それだけで周りの空気が華やかに彩られてゆく。
目立たぬように。
これは最も難しい注文であると、ロザリアには思われた。
それは事実であるだろう。
だが彼女がオリヴィエに敬意以外の感情を持ち始めたために、その思いにより拍車がかかっていることを、ロザリアはまだ気づかないでいる。

「さて、そろそろかな。」
壁際に据え付けられた大きなオルゴール仕掛けの時計をちらりと眺めやって、オリヴィエが口を開いた。
一時二十分。
レース前の馬たちが、パドックに姿をあらわす頃である。
パドックとは小さな公園のような広場に次のレースに出走する馬たちを集め、その馬の体調や機嫌などを観客に見せる場所である。
観客はここで目当ての馬を最終的にチェックして、賭け金を決めたり賭ける馬を決めなおしたりする。
「パドック側のテラスから見えるはずだよ。
出てみるかい?」
オリヴィエがロザリアの前に右手を差し出した。
白いキッドの手袋をした小さな手が、それをとる。
「ええ。
もちろんですわ。」
つばの広い帽子のために整えられた髪形が、ロザリアをいつもより大人びて見せている。
帽子と揃いの白いドレスは、シルクのリボンだけでアクセントをつけたいたってシンプルなもの。
時折のぞく少女らしい表情がその典雅な姿とアンバランスであることも、危うく脆い魅力であるようだとオリヴィエは思う。
厚いクリーム色の絨毯に、彼女の黒いヒールが沈む。
観戦席とは反対側のテラスまで、その絨毯は敷き詰められている。
二人は音もなくテラスに近づいて、既に興奮と熱気に包まれた階下の喧騒を見下ろしたのだった。

レースのコースを何分の一かに縮小したようなパドックには、既に次のレースに出走する馬たちが姿を見せていた。
それぞれ厩務員に引かれて、多勢の観客の刺すような視線の中を、ゆっくりと歩いている。
ロザリアの目はすぐさまシュプリーム号を見つけた。
大きな栗毛の馬体。
額の白い流星。
重賞レースに出走する一流の馬たちの中にあって尚、彼はとびきり美しい。
別れた時よりがっしりとした後足付け根と胸前の筋肉。
それとは対照的に、しっかり絞り込まれた腹部。
より競走馬らしく成長した、シュプリーム号の姿がそこにあった。
「シュプリーム!」
防犯警備のために2重になった厚いガラス越しに、彼女の声は彼に届くはずもない。
けれどロザリアはガラスに手を押し付けて、ささやくように呼びかける。
「シュプリーム、元気そうね。
良かったわ。」
レース前の馬はそれぞれ緊張状態にある。
落ちつきなくきょろきょろとあたりを見回すもの。
やたらにぶるぶると首を振るもの。
大きく後ろげりをするもの。
いろいろである。
だが、シュプリーム号は全く落ちついている。
首をぐっと下げて、一点を見据えるようにしてゆったりと歩く。
その歩様は一定のスピードで、3歳の若駒とは思えぬ風格さえ漂っていた。
臨戦態勢に入っている。
傍目にもはっきりとわかる。
「調子、良いみたいだね。」
「そうですわね。」
ロザリアの応えは、あまり嬉しそうではない。
不審に思ったオリヴィエが、ふいと彼女の顔を覗きこむ。
「どうかした?」
「いいえ。別に。」
ロザリアは、リヴィングへと身を翻した。

「わたくしがいなくても、あの仔は平気なんですわ。」
面白くない原因はそれか。
なんとかわいらしいのだろう。
オリヴィエの口元に優しい笑いが浮かぶ。
「わたくしがこんなに心配しているというのに、あの仔はもうわたくしのことなんか忘れたよう。」
自分の言っている事が駄々をこねているのと同じだと、ロザリアはわかっているのだろうか。
くるりと振り向いたロザリアの目に、オリヴィエの柔らかい微笑が映る。
瞬間、彼女は理解した。
自分がつい、彼に甘えてしまったことを。
そして恥じた。
たちまち頬に血が上る。
「申し訳ありません、オリヴィエさま。
わたくし、どうかしていたのですわ。」
オリヴィエの視線から逃れるように、彼女は目を伏せた。
「あの仔はいつだってアンタのシュプリームだよ。」
深みのある優しい声が、彼女の心に染み込んでゆく。
「愛してくれるもののことを、そう簡単に忘れてしまえるもんじゃない。
そうだろう?」
ロザリアが視線を上げる。
振り仰いだ先に、落ちついた温かい色の瞳があった。
凝り固まった心が潤びてゆくような温かさ。
ロザリアは息をついた。
ゆっくりと笑顔が戻ってくる。
「そう。
アンタにはその顔が一番よく似合うよ。
本当に、綺麗だね。」
もしやましいところが一点もないのなら、オリヴィエは彼女を抱きしめてこのセリフを言ったことだろう。
彼女はどんどん彼の中に入ってきている。
それなのに彼はそれに抗わなくてはならない。
覚悟していたとは言え、辛いことだった。

二時。
今日のメイン、3歳チャンピオンを決める重賞レースが始まる。
正装した王立派遣軍の吹奏楽隊が、華やかにファンファーレを演奏する。
場内が異様なほどのどよめきと熱気で満ちてくる。
出走する馬たちは、次々に発走ゲートに誘導されてゆく。
全部で16頭。
かなり多い頭数でのレースになった。

シュプリーム号は外側の枠。
15番のゼッケンをつけている。
これまでの彼のレースを見る限り、彼は先行逃げ切りタイプの戦い方をする。
外目の枠は、彼にとってあまり有利ではない。
1600メートルという比較的短距離のレースでは、どの馬も最初から飛ばして行くことが予想される。
内側の馬を出しぬいてシュプリームが先行する為には、最初のコーナーに達する前に、なんとしても内側のコースに入らねばならない。
出だしからかなりの馬力が要求されるのだ。
「シュプリーム。」
観戦席のガラスにはりつくようにして、ロザリアが口にする。
祈るように、手袋の指が組み合わされた。

ガシャン!

ゲートが開く。
16頭の馬がいっせいにスタートを切った。