萱葺きの城(9)
ドドドドド・・・。
地響きと土煙り。
各馬はそれぞれ、自分の最も得意とするポジションを一刻も早くとろうとする。
重戦車のような勢いで、シュプリーム号は駆ける。
斜めに各馬たちを追い越してゆくには、後続の馬との距離を相当にとらなければならない。
斜行は、後で審議の対象になるからである。
勢い良くスタートダッシュをかけて、すいと内側のコースに入った。
こうなればしめたもの。
彼の勝ちパターンができあがる。
最初のコーナーに至ったとき、彼は後続の集団に大差をつけていた。
ゆうゆうと自分のペースで駆けてゆく。
騎手はまだ全く手綱を動かしてはいない。
もちろん一回の鞭も当ててはいなかった。
最終のコーナーにそのまま向かう。
後続の馬の集団が、次第に彼との距離を詰め始めた。
たいていの先行馬がここで捕まる。
後続の集団に飲みこまれ、ついには馬群に沈んでゆくのである。
しかし、シュプリーム号は違う。
今までのレースを見る限り、彼はここでもう一度伸びる。
まるで2機のエンジンを搭載しているかのように、最後のコーナーでもう一度加速するのである。
「いい仔ねシュプリーム。
そうよ、そのまま。
そのまま戻っていらっしゃい。」
銀のオペラグラスを握るロザリアの手に力が入る。
レンズで拡大されたシュプリーム号の姿に、ロザリアの全神経が集中していた。
シュプリーム号が最終コーナーにかかる。
2機目のエンジンが点火された。
加速する。
最後の直線コースに入る。
そして、そのとき。
惨劇は起こった。
ぐしゃり。
鈍い音がロザリアには聞こえた。
シュプリーム号は急にバランスを崩し、右に大きく傾いだ。
ぐわんと、うねるようなどよめきが上がる。
シュプリーム号はそのまま転倒した。
騎乗していた騎手が振り落とされる。
その横を、後続の集団が駆け抜けてゆく。
その集団がゴール板を通過しても、ロザリアの目は最終コーナーから離れなかった。
「シュプリーム。」
ささやくような力ない声。
オペラグラスが彼女の手から滑り落ち、絨毯の上でバウンドして沈んだ。
振り向きざま、ロザリアは駆け出した。
その手首をオリヴィエがつかむ。
「放して!」
悲鳴のような高い声。
振りほどこうとロザリアは必死で抗った。
「行かなくては!
わたくし、すぐに行かなくては!!」
「駄目だよ、ロザリア。」
背後からオリヴィエが彼女の身体を抱きとめた。
「放して!
放してください、オリヴィエさま!」
「アンタは今お忍び中なんだよ。
行って自分の身分をどう説明するつもり?」
オリヴィエは彼女を抱く手を緩めない。
「IDもなにも持たないアンタが、ロザリアだって証明できるものはなにもないんだよ。」
「厩舎の関係者に会えば、すぐにわかりますわ。
わたくしは確かにロザリア・デ・カタルヘナなのですから。」
「その人たちに会えるかな?
今この騒ぎの中で、そこまでたどり着くのが大変なんだよ。」
ロザリアの抵抗が止んだ。
ぐったりとオリヴィエの腕に身体を預けている。
「では・・、ではどうすれば良いのですか?
このままわたくしは、どうすることもできないのですか!?」
「そうは言ってないよ。
少し頭をお冷やし。」
オリヴィエが彼女の身体をくるりと自分の方へ向ける。
歯の根が合わないほどがちがちと震えるロザリアの、恐怖に満ちた瞳が痛々しい。
「とにかくお掛け。」
リヴィングのソファに、彼女の身体を大切そうにそっとおろす。
「わたしがなんとかするから。
アンタはじっとしてるんだ。」
部屋の壁際に、警備用の電話がある。
オリヴィエは受話器を上げて、VIP用の警備主任を呼び出した。
「オリヴィエだけど。
今のレースで故障した馬を見舞いたいんだ。
案内してくれるかな?」
特権を振りかざすのはオリヴィエの趣味ではなかった。
けれどこの場合、こういう手段しかない。
「すぐに案内の人が来てくれるそうだよ。」
振りかえると、ロザリアは青い顔をして呆然としている。
「しっかりおし!
まだどうなるか、わからないんだからね。」
ロザリアの正面で中腰になり、叱りつけるような口調でオリヴィエは彼女の肩を揺さぶった。
「そんなことでどうするんだい?
これからの方が大変なんだよ!」
オリヴィエにも、馬の事故の結末がどういうものかの知識はあった。
大きな事故である。
最悪の事態も、覚悟しておかなければならないだろう。
事故に遭ったのはただの馬ではない。
ロザリアにとって何にも換えがたい、彼女自身の一部のような馬だ。
最悪の事態が起こった時、彼女は耐えられるのだろうか。
そして自分は彼女を支えきれるだろうか。
支えてやりたい。
何があっても。
オリヴィエの青い瞳の先にいるロザリアは、さらに蒼白な顔をして震える身体を自分の腕で抱きしめていた。
警備員の案内で、二人はシュプリーム号の運ばれた治療用の厩舎に入ることができた。
午後もまだ早い時間だというのに、屋内は薄暗く、ずんと重い空気に満ちていた。
「お嬢さま!」
カタルヘナ家の厩務員が、ロザリアの姿を認めて驚いた声を上げる。
その瞬間、寝藁の上で横たわっていたシュプリーム号が立ち上がろうとする。
がさりと藁のこすれ合う音。
「駄目よ!
シュプリーム、無理しては駄目!」
ロザリアが叫ぶより早く、彼は立ちあがっていた。
だがそれもホンの一瞬のことだった。
立ちあがり右後足を地につけた瞬間、彼は悲鳴のようないななきを上げ、脚を跳ね上げると、耐え切れずまた寝藁の上に倒れこんでしまったのだ。
「シュプリーム!」
ロザリアが駆け寄る。
苦痛のためか、シュプリーム号はかなりの発汗をしている。
大きな黒い瞳も潤んで見えた。
「先生!」
たまらずロザリアは、獣医師の顔を見つめた。
だがそこに彼女の望む応えはなかった。
もうどうしようもないのだと、獣医師の目が語っている。
そんな!
叫び出したい思いだった。
「余後不良・・ということになります。
残念ですが。」
陰鬱な獣医師の声を、ロザリアはぼんやりと聞いた。
余後不良。
殺すというのか。
殺すというのか、わたくしのシュプリームを!!!
手袋をした指で、膝元に散らばる寝藁をつかむ。
目を上げるとシュプリーム号が彼女を見つめていた。
どんなにか痛くて苦しいのだろう。
乾いた口元に泡の跡がこびりついている。
次々と噴出す汗が、彼の美しい栗色の馬体を湿らせていた。
「お水・・。
お水を持ってきてちょうだい。」
かすれたロザリアの声に、背後からオリヴィエが手桶を差し出した。
無言である。
ロザリアは手袋をとり、両手で水をすくうと、それをシュプリーム号の口元に運んだ。
弱々しく首をもたげて、彼は彼女の手に口を押し付ける。
けれどそのわずかの水でさえ、最後まで飲み干すことができなかった。
力尽きたようにぐったりと首を下し、また寝藁の上に身体を預けてしまう。
「お嬢さま。
残念ですが処置をいたします。
ご覧にならない方がよろしいでしょう。
どうぞ、お出になっていてください。」
古くから彼女を知る厩務員が、気遣わしげに声をかけた。
シュプリーム号の誕生にも立ち会った男である。
顔を上げないまま、ロザリアは静かに首を振った。
「ここにいるわ。」
厩務員が助けを求めるように、彼女の傍に立つオリヴィエを見る。
できるなら連れ出して欲しい。
彼の目がそう言っていた。
オリヴィエは応えなかった。
最愛のものを失うのに、最後の瞬間から逃げ出せる彼女ではない。
多分、ここにいる誰よりもオリヴィエはそれを知っていたから。
小さな、本当に小さくて細い注射器の針が、獣医師の手で鈍く光った。
500キロもあるシュプリーム号の息の根が、これ一本で止まる。
「さあ、いい仔ね。
ほんの少しの我慢だわ。
治ったら・・、また遠乗りに出かけましょう。
きっとね。」
不安げに見開かれたシュプリーム号の黒い瞳を、ロザリアは優しく見つめ返す。
鼻面を何度も何度も撫でてやる。
「ほんの少し眠ったら、また・・。」
右脚付け根の静脈に細い針がうちこまれた。
ぴくりとシュプリーム号の身体が震える。
ロザリアが唇をかんだ。
やがて、彼の目が閉じられる。
ゆっくりと。
眠るように。
ロザリアの指先に伝わる彼の体温が、少しづつ遠のいてゆく。
彼の命の火が消える。
ロザリアはいつまでも、手を離すことができなかった。
すべてを終えたロザリアが、リムジンのシートに崩れ落ちる。
「寄っていただきたいところがありますの。」
抑揚のない乾いた声でひっそりと口にした。