至福 *悲恋注意*
此岸と彼岸の狭間を流れるこの川に果てはない。
始まりのない川上、終わりのない川下。
何処までもただ続く、蛇行したその流れ。
名を、忘却の川という。
立ち上る靄、立ち込める霧。
白木の小船が川面に浮かぶ。
ぼんやりと。
小船はゆるゆると流される。
横たわる金色の髪の青年を乗せて。
整った白皙の美貌に、表情はない。
悲しみも歓びも。
死んでいるのか、眠っているのか。
それさえも、その顔からはわからない。
彼は現身にあって、尊い守護聖だった。
誇りを与える光の守護聖。
輝かしい過去を持つ彼の身であった。
求められた義務に忠実で、女王への忠誠は誰よりも厚かった。
誰もが彼を誉めそやし、敬い、謹んだ。
彼もそれに満足し、清廉で謹厳な生涯を送るはずだったのだ。
だが、彼は出会ってしまった。
ただ一人、尊敬以外の感情で、彼を見つめる愛らしい少女に。
暖かい春の陽射しのような微笑で、小鳥のようなおしゃべりで、彼の心に住みついたその少女。
あまやかな金色の髪も、大きな緑の瞳も、すべて独占したいと思ったほどに、彼は心を乱された。
それなのに彼は少女を拒んだのだ。
たくさんのいい訳で自分を守りながら、彼は少女の必死の愛を退けた。
少女が次の女王になる身であったから。
彼が首座の守護聖であったから。
それが真の理由でないことを、誰よりも彼が知っていた。
彼は恐れたのだ。
恋の始まりが、同時にその劣化の始まりであることを。
移ろいゆく心を。
一度手にした愛情を、なくした後の自分の惨めさを。
誇り高い彼の気質は、同時に彼を臆病にさせた。
恋を受容れるだけの勇気を、彼は持てなかったのだ。
少女は去った。
微笑みもおしゃべりも、それきり封印して。
そして見事な女王を勤め上げ、生涯を終えた。
そうなって初めて、彼は気づいた。
生涯彼一人を守りつづけた、彼女の変わらぬ愛に。
激しく一途に彼一人を愛してくれた、彼女の心に。
自分の愚かさをどんなに呪っても、呪い切れない。
彼は自ら捨てたのだ。
この先どんなに探しても、決して得られぬ希少な愛を。
だからその生涯が終わった時、彼は彼岸に行くことをしなかった。
何度転生しても、失った以上の愛には出会えないと思ったから。
そしてすべてを忘れることを望んだ。
何もかも。
忘却の川の渡し守は、白木の船で彼を流した。
この流れに乗っていれば、何もかも忘れてしまうのだと言って。
流されて流されて、どれほどの時がたつのか。
ぼんやり霞みゆくのは、輝かしい幾つもの過去。
けれど一番忘れたい苦しみは、一番恋しい歓びの背に張り付いている。
だから消せない。
どんなに流されても。
さらなる深い忘却を彼は願った。
どうか私を救って欲しいと。
女が現れた。
霧と靄に霞む川面に浮かび上がる、長い黒髪の女。
妖しいほどの紅い唇。
不思議な光を放つ緑の瞳。
滑るように水面を進み、横たわる彼の膝元に腰を下ろした。
「では私と来るが良い。おまえの望む完全な忘却を与えよう。」
彼は身を起こし女の手を取った。
女の正体になど興味はない。
ただ救われたい一心で。
「誇り高く無垢な魂よ。
水底の宮に、現世のしがらみは何も持ち込めぬ。
それでも・・・良いか?」
女の低い問いかけに、彼は頷いた。
「忘れたいのだ。
私が誰であるかということさえも。」
女の腕が彼を抱き取る。
やわらかな優しいその感触。
足下の船底が、溶けるように川面に吸いこまれてゆく。
水に浸かった足の先から、意識が麻痺し遠のいてゆく。
忘却の誘惑が心地よい。
だが薄れてゆく意識の中で、何かがあがく。
彼の蒼い瞳がぼんやりと映す、女の緑の瞳。
それが彼の胸を揺さぶった。
「アンジェリーク。」
つぶやいたその名が、誰を指すのか。
すでにそれさえ、定かではない。
けれど、しがみつきたい名前であった。
「アンジェリーク。」
再び唇にのぼせたその名の響き。
懐かしく恋しい、彼の最後の執着なのか。
女が、薄い笑いに似合いの冷たい口付けを与える。
「つむぎ出す、言葉の端から忘れゆくその悦楽を、今におまえも感謝する。
なによりも・・・それがおまえの望みだったのだから。」
川面に浮かぶ空の船。
ただゆるゆると、果てのない川下に向かう。
後に残るのは、晴れることのない霧と靄。
闇のしじま。
忘却の愉悦のみ。