手枕の淵(1)

カツン・・と乱暴にかかとを打ちつけた。 先だって手に入れたばかりで、まだ何度もはいていないヒールの靴は、かなり気に入ったものだったのに。

整えられた細い眉をきゅっと寄せる。

また・・だ。

まっすぐには帰れない。

とてもこのままでは・・・。

唇を噛み締めた。

 

 

 

「夢のサクリアが不足しているようです。

人の気持ちが荒立っているわ。

オリヴィエ、行ってくれますね。」

聖殿、謁見の間。

玉座の主から そう言われれば、否やのあろうはずはない。

女王の命は絶対であった。

だがそれだけが理由ではない。

オリヴィエはその女性の願いなら、すべてかなえてやりたい。

そう思っているのだから。

女王は普段けっして素顔をさらすことはない。

薄絹のヴェールをしっかりとおろし、一段高い玉座から言葉少なに短い命令を出すだけだ。

だがオリヴィエには見える。

透けるような白い肌。

それにくっきりと映える、青い青い瞳の輝きが。

彼の腕の中にあって、さらに輝きを増すその瞳。

昨夜の記憶の映像が、彼の脳裏をふとよぎる。

居並ぶ8人の守護聖たちの誰一人、そんな彼女を知るまいに・・・。

オリヴィエの口元がわずかに歪む。

勅命を受ける場に不似合いな微笑。

女王の御前に膝を屈し、伏せられた彼の顔。

その様子はとても、慎み深く見えているのだけれど。

「賜りました。」

抑えた声の調子も見事なものだった。

まさにこの場に相応しく取り繕った声。

公私のけじめはしっかりとつける。

それは女王を恋人に持ったその日から、ずっと守りつづけてきた自制。

誰に言われたわけでもなく、望まれたわけでもなかったが、公式の場での彼は女王に仕える守護聖以外の何者でもない。

全く非の打ち所一つないほどに。

「ではすぐに。

さがっていいわ。」

玉座の主も、余所行きの声で応える。

見交わす視線もやはり、公式な儀礼に相応しい。

女王とそれに仕える守護聖の。

 

 

辺境の惑星。

荒れた心に希望を与える。

先の見えない苛立ち、不安。

そんなもので満ち満ちた星に、美しい夢を与えるのが今回の彼の仕事だった。

いつものことさ。

軽く考えていたけれど、思ったよりもたくさんの力が必要だったようだ。

「消耗した・・かな。少しだけね。」

惑星の高官に感謝の言葉で見送られ、特別便のシャトルに乗りこんだオリヴィエは、ぐったりとその身をシートに沈めた。

全身から力が抜けたようだ。

それなのに気分は昂ぶっている。

ふつふつと湧きあがる欲望。

これもいつものことだった。

「また・・だ。」

たくさんの力を放出した後に起こるこの気分の波。

もう、慣れても良いはずなのに、いまだその処理ができないでいる。

ひとつ。

もっとも単純な処理法は知っているのだけれど・・・・。

 

 

主星に降り立ったオリヴィエは、まっすぐに聖地へは戻らなかった。

戻れるものか。

このままで。

そう、思う。

聖地に続く主星の繁華街。

その中でとりわけ華やかな、歓楽街へと彼の足は向かう。

着飾った女の並ぶ飾り窓。

安物の脂粉と香水のにおい。

嬌声と媚態。

当たり前のように揃うそれらが、今のオリヴィエには心地よい。

「ちょいと、キレーなおにーさん。

遊んでかない?

アンタだったら安くしとくよ。」

素顔がわからぬくらいに塗りこめられた濃い化粧。

いかにもこの街に似合いの作り声。

ホンのわずかに顎を引いて目を伏せたオリヴィエは、鼻先で小さく笑う。

誰でも同じだ。

この昂ぶりを抑えてくれるなら誰でも。

「そう・・。

じゃ、相手してもらおうかな。」

声をかけてはみたものの、それは営業上の習性のようなもの。

まさか・・・。

まさか本当に、この美しい男が自分の誘いに乗るなどとは思わなかった。

女の表情にあからさまな驚きが見て取れた。

「どうしたんだい?

アンタが誘ってくれたんじゃないか。」

ブルウの瞳が、妖しげで艶めいた色を浮かべる。

「気が・・・変わったのかい?」

既にオリヴィエの腕は、女の腰に回されていた。

薬指で、そこから背筋を撫で上げる。

女の口からため息が漏れた。

「さあ・・、アンタの部屋へ行こう。

わたしに、良い夢を見せて欲しいね。

極上のやつをさ。」

主客転倒であった。

どちらが客かわからない。

すっかりぼんやりとしてしまった女を抱きかかえるようにして、オリヴィエは飾り窓のある宿へ入っていった。

 

 

細い指が銀色の弦を爪弾く。

澄んだやわらかい音色。

あたたかい紅茶の湯気が立ち上る。

優しい夜の一時だった。

だが、この部屋の主の表情はすっきりとしない。

なにか物思いに沈んでいる風であった。

「どうかなさいましたか、陛下?」

ハープの音がぷつんと途切れる。

「陛下?」

2度目の呼びかけに、女王は顔を上げる。

そして水色の視線に気づいた。

気遣わしげに、彼女をじっと見つめる水色の瞳。

「ああ、ごめんなさい。

なんでもないのよ、リュミエール。」

陛下・・・。

その尊称を戴くようになってから、ずいぶん経ったような気がする。

神のような存在であった守護聖たちを呼び捨てにし、さらに彼らに命令できる今の身分。

ロザリア・デ・カタルヘナ。

誇らしい気持ちで名乗ったその名。

今では誰も使わない。

いや、ただ一人いる。

ひっそりとこの聖地中が寝静まった夜中。

月明かりの下で彼女をその名で呼ぶ男。

「ロザリア・・・。」

その瞬間だけが、彼女がただの女に戻れる時だ。

女王でも何でもない。

ただのロザリアに。

その男が、彼女の心をこんなにも乱している。

今夜もきっと、彼はここへは戻ってこないのだろう。

厄介な仕事を頼んだ後、いつもそうであるように。

 

 

「お顔の色が優れませんね。

なにかおありになるのでしょう?

わたくしに・・お話しくださいませんか?

それで少しでも、お気が晴れるのではありませんか?」

細かな細工の施された銀のハープを脇において、リュミエールはゆっくりと立ちあがる。

彼のまとう薄いローブが、さらりと乾いた衣擦れの音をたてた。

ロザリアの目の前に膝をつき、彼は下からのぞきこむ。

「本当に・・・どうなさったのですか?」

すいこまれるような優しげな瞳。

つい・・、誘われるようにロザリアは口を開いていた。

「力を使った後、気分が荒ぶるって本当なのかしら?

あなたも・・あなたもそうなの?

リュミエール。」

言葉に出した後、ロザリアはハっと我に返る。

なんという事を口にしたものか。

カンの良いリュミエールのことだ。

これが誰のことを指しているのかすぐにわかってしまうだろう。

そして彼女の憂鬱が、何の故であるかということも。

嫉妬しているのだ・・ということを。

 

 

「ありますよ。」

笑いを含んだおだやかな声が応える。

「わたくしも男ですから。」

「え・・?」

思いもかけない人から出た言葉に、ロザリアは思わず問い返す。

「意外でしょうか?

そんなに、おかしいですか?」

応えた声は相変わらずゆったりとしたものであったけれど、その水色の瞳には先ほどまでの慎みに代わって、得体の知れぬ危険な光がちらちらと見え隠れしていた。

「例えば・・・。

こうして私室に招じ入れていただけるほど、わたくしは安全な男に見えているのでしょうか?

あなたには・・・。」

「そ・・んなつもりでは・・。」

立ち上がり、ともかくもリュミエールとの近すぎる距離を調整しようとしたロザリアを、リュミエールの腕が抱き寄せる。

「な・・・にを?

お放しなさい、リュミエール!」

細い腕を思いきり突っ張って、なんとか男の腕から逃れようとしたけれど、彼女を捕えた腕は思いの他強く、抗えば抗うほどにその締め付けはきつくなる。

「お放しなさい!

聞こえないのですか?」

「あなたにも・・・・、おありのはずでしょう?

気分の昂ぶりなどというものは、なにも男にだけあるものだとは思いませんよ。

正直におなりなさい。

ロザリア・・・・。」

ただ一人の男にだけ許された呼称で彼女を呼び、リュミエールは艶然と微笑んだ。

「じりじりと・・・・、ただひたすらに胸を焦がしているだけなどと。

あなたにはお似合いになりませんよ。

わたくしが融かしてさし上げましょうね。

おいやでは・・無いでしょう?」

「リュ・・ミエール。

気は確かですか?

今なら許してさし上げます。

その手をお放しなさい。

人を呼びますよ!」

思いもかけない事態に動転してはいたけれど、ロザリアの自尊心はそのままリュミエールの無体を許すことなどできなかった。

緊張と動揺をやっとの思いで押しこめて、慮外な不埒者に彼女は厳しい視線を向ける。

「こんな夜更けにわたくしと二人。

人に知られては、お困りでしょう?」

ひるむことさえしない。

薄い笑いを浮かべた口元が、そのまま彼女の間近に迫る。

甘い花の香り。

それがリュミエールの吐息だと気がついた時、ロザリアの唇は自由を失っていた。