幸福への回帰(2)
「雨…か。」
石造りのバルコニーに、ぽつりぽつりと水滴のシミができる。
頬に落ちた冷たい雫を指で弾いて、炎の守護聖オスカーは、雨雲の厚く垂れ込める暗い空を見上げた。
送り雨だ。
ひっそりと誰にも告げずにここを去ったあいつのために、聖地の空が別れを惜しんで降らせた雨だと思う。
バルコニーの内側に接した広間では、夢の守護聖着任の宴の会が賑々しい。
あいつらしいと、オスカーは思った。
ここでは招かれる時もいきなりなら、去る時も同じ。
潔い身の処し方は、いかにも粋な同輩のやり方らしかった。
華やかなワルツ、大勢の行き交う気配に満ちた広間を、オスカーは振り返る。
そこはまだ、彼の居るべき場所であった。
公式の行事であれば、いつまでも酔い覚ましを決め込むわけにもゆかない。
<戻るか…。>
広間へと重心を動かしたその時、ふいに。
逆光のシルエットが、バルコニーへ現れた。
すらりと伸びた身体つき、ほっそりと括れた腰からやわらかな曲線を描くその下のライン。
いとも優美なモノクロームの影は、息をひとつする間、動きを止めた。
「雨…ですのね。」
ひっそりと湿った声。
こつんと軽いヒールの音をさせて、影はオスカーの左隣へ進む。
「お見送りをしていらしたの?」
広間の明かりに浮かぶ白い横顔。
きつい蒼の瞳、濃く長いまつ毛。
目を奪われる。
正直なところ、あまり好ましくない状況だった。
努めてできるだけ、二人きりにならないようにしてきたというのに。
動揺を悟られないように、そっけない答えを返す。
「ああ、そんなところだ。」
オスカーの心中を知ってか知らずか、影の主、女王補佐官ロザリアは、聖殿正面から続く道の先、見えないその先に視線を向けた。
「もう、着いたかしら。」
彼女も見送りに来たのだ。
長い時間を共に生きた仲間であった。
寂しいと思うのは、ごく自然なことではある。
だがオスカーの胸に、チリっと焼け付く小さな痛みが走る。
誰かを思う彼女に、押し込めた胸の熾火が勢いを増しかける。
<いかんな。>
だからことさら明るい声で言った。
「さあ麗しの補佐官殿、いつまで新任の夢の坊やを待たせておくつもりだ。
ほら、見てみろ。
心細げにこっちを見ているぜ?」
なるほど言葉のとおり、ややくすんだ金色の巻き毛をした少年が、ロザリアの姿を探しているようだった。
「戻るぞ。」
そう言うと、オスカーはロザリアに背を向けた。
「いつかは…、みんないなくなってしまいますのね。」
寂しげな声は、夜の雨に溶ける。
振り向いてその顔を見たいと、その衝動にオスカーは耐えた。
「そうだな。
いつかは。
そして次は、俺かもしれんということだ。」
息を飲む気配を感じた。
ロザリアの動揺が、オスカーを天にも昇る心地にしてくれる。
だが同時に沸き上がる苦い痛みを、オスカーは胸に沈めた。
「補佐官殿、公式行事だ。
戻るぞ。」
振り向きもせずあえて事務的に言い切ると、オスカーは先に宴の席へと戻って行った。