幸福への回帰(3)

補佐官の私邸は、聖殿から馬車で10分ほどの距離にあった。

近すぎれば、神経が休まらない。

かと言って、遠すぎれば火急の事態への対応が遅くなる。

私邸を賜ると聞いた時、ロザリアは聖殿のどこか1室をもらえればそれで良いと、女王へ願い出た。

だが女王は、首を振った。

 

「だめ。

ロザリアはほんとに真面目なんだから。

休む時はちゃんと休んでもらわないと。

女王試験とは違うのよ?

長い長い長い時間を、ここで一緒に過ごしてもらうんだから。」

 

そして賜ったのが、聖殿から馬車で10分の瀟洒な館であった。

小ぶりだが手入れの行き届いた庭園があり、そこには彼女の好みの薔薇が植えられていた。

門をくぐり、玄関の前で馬車が停まると、青いベルベットの足台が用意される。

館の女主人は、優雅にしゅるりと裾をさばいて、青い絹のヒールを足台に下ろす。

 

「おかえりなさいませ。」

 

女王府付から派遣された青年は、ロザリアの着任と同時にこの館の執事となった。

白い髪に赤い目をした長身の彼は、元は王立博物館の学芸員だとか。

名門貴族に生まれたロザリアに、より快適な日常をと様々な知識に長けた執事をつけた。女王の心遣いである。

 

「お茶をお持ちいたしましょうか?」

 

宴の後である。

いささか疲れてもいた。

 

「そうね。そうしてちょうだい。」

 

玄関奥にある緩やかな階段を上り、庭園を見下ろす自室へ向かう。

みずみずしい白薔薇が、アルコーブの飾り台に置かれていた。

優しい香りが、ロザリアの心をほどいてくれる。

夜も遅い時刻だからと、メイドはあらかじめ下げてあった。

自身で補佐官の正装を解く。

コルセットで締め上げる必要のない肢体が、光度を絞った照明にぼんやりと白く浮かんだ。

ロザリアは素肌に薄い青のローブをまとうと、窓際の寝椅子に肘をついて身体を預けた。

遠慮がちのノックが3回。

 

「お茶をお持ちいたしました。」

 

精霊の彫刻を施した重い木製のワゴンの上に、白磁のティーポットと揃いのカップがあった。

執事が慣れた手つきでポットを持ち上げ注ぐと、薄い琥珀色の波がカップの中で揺れる。

ダージリンの香気が、雨に湿った部屋を染めてゆくようだった。

 

「ありがとう。

今夜はもう良いわ。」

 

背筋の伸びた綺麗な礼を一つして、ほとんど音をたてずに執事が下がると、ロザリアは彼の残したカップに指を伸ばした。

 

 

マスカットに似た高貴な香りが、彼女の好みであった。

それは遠い昔、首星の名門貴族の令嬢と呼ばれたあの頃から変わらぬ好み。

引き替え、自分の境遇のなんと変わってしまったことかと、ロザリアは思う。

生家にあれば、家格の釣り合う誰かといずれ結婚し、後継ぎをもうけ、それなりに穏やかに暮らしていただろう。

けれど今は、そのほとんどが許されない身の上である。

しかもこの禁止には、時限がない。

たとえあったとしても、彼女にはそれがいつとは知れないのだから、ないのと同じである。

長い長い時間を、同じ時間を過ごす女王の力になるために、ただそれだけのために、笑って過ごさねばならない。

もしロザリアが沈んだ気分につかまれば、友人でもある女王はすぐに気づいて心を痛めるだろう。

ただでさえ一人で重責を担う女王を、ロザリアのために悩ませてはならないと思う。

けれどこの頃、ときおりふいっと頭をもたげる思いが彼女を悩ませる。

 

「ではわたくしは?

わたくしのことは、誰が気にかけてくれるというの?」

 

果てのない義務と責任に終わりが来た時、彼女には何も残らない。

その考えはとても恐ろしく、身震いするほど怖かった。

だから彼女は、できるだけその思いを封じて生きてきた。

今をまっすぐに見つめ、自分に課せられた責任を果たし、それが最優先課題であると常に自分に言い聞かせ。

誰かを特別に思うなど、論外であると。

もしそうなれば、互いに不幸になるだけではないか。

彼女の身に、下界の当たり前の時間が戻る日は、誰にもわからない。

そうであれば、いずれは別れの時が来る。

その時、果たして自分は平静でいられるだろうか。

想像するだけで恐ろしい。

だから。

だから拒んだ。

遠い日、彼女がまだ補佐官に着任して間もない頃のこと。