蒼の蜃気楼(1)
砂漠の夜には声がある。
冷えた大気を震わせて、時に優しく恐ろしく、その声を変える。
「今夜は機嫌が良いようだね。」
満天に散りばめられた星屑を振り仰いで、オリヴィエは目を閉じる。
まるで少女のはしゃぐ声。
軽やかなさざめきが、辺りを優しく渡ってゆく。
しゃくしゃくと混じるのは、らくだの歩み。
隊列を乱さず生真面目に進む、らくだの蹄の沈む音。
ひんやりとした夜気が心地よい。
気まぐれな砂漠の精霊は、灼熱の昼間に耐えた隊列を、今夜は優しく見守ることにしたようだ。
見渡す限り、砂の原。
ここが何処やら、目指す方向やら、一切わからない。
星を読み、先頭を行くキャラバンの長に従って、ただ黙々とらくだは続く。
星明りに照らされた白い砂の原、見はるかす続く乾いた砂、また砂の上を。
「じきに国境です。」
前を行くらくだの背から、半身を振り向けて青年が告げる。
自慢の銀の髪もここでは邪魔になるようで、粗い麻の布でくるくると巻き上げてあった。
「まあ国境と言ったって、何があるわけじゃないですが。
そこを過ぎれば、城門ですよ。」
単調な行程に、いささか飽きたらしい。
手綱を器用に操って、青年はオリヴィエのらくだに近づいた。
「それにしても、聞きしに勝る…というとこですね。
いくら目立たぬようにと言われたからって、こりゃひどい。」
大げさに眉を寄せて、麻ひもで縛った手袋の腕を差し出した。
「ほら、これ。」
びっしりと砂のついた手袋は、行程の酷さを雄弁に語ってくれる。
「昼間は、息もできませんからね。
40度だとか、ここの連中は言ってますけどね。
大ウソですよ。
50度はあるに違いない。」
芯からまいっているらしい。
常日頃、聖地でそれなりの色男を気取る青年を知っているだけに、弱り切ったその様子があまりにも正直で、つい笑いがこぼれてしまう。
「おや、珍しいね。
あんたが弱音を吐くなんて。」
砂塵除けの薄い布越しに、オリヴィエのやや暗色の青の瞳がからかうように笑っている。
「ええ、なんとでもおっしゃってください。
こんなことなら、変な意地を張らずに、次席補佐官に来させるのでしたよ。
そうすればこんなところで、砂まみれになることも…。」
不貞腐れた様子も、半ば以上は慣れ親しんだオリヴィエへの甘えである。
夢の守護聖の首席補佐官に着任して5年。
その間どんな辺境へも付き従った青年を、オリヴィエはよくよく知っていた。
「じき国境だろ?
たった今、あんたがそう言ったじゃないか。
城門をくぐれば、息もつけるさ。
それに…、とびきりの美女もね。」
最後の一言に、きっと食いつくに違いない。
当たり。
「砂漠の町の美女ですか!
この辺りは美しい女性が多いと有名ですからね。
着いたら、とにかくまず風呂に入って、それからです。」
早速、着いたその夜の予定を組み始めたらしい青年に、オリヴィエは声をあげて笑った。
「そうそう。
せいぜい洒落て、町一番の美女を射止めることさ。」
とりあえず次の国へ入れば、今回の任務の目的地は目と鼻の先である。
2週間と少し続いた酷い行軍も、間もなく終わりが見えてくるはずであった。
砂丘の向こうに、ちらちらと揺れる灯り。
「国境警備のやぐらです。」
青年の弾むような声に、遠く目をやれば、長い石造りの城壁に、先頭のらくだが飲み込まれてゆく。
後に続く隊列が次々と飲み込まれてゆくのを眺めて、オリヴィエはようやくほっと息をついた。