蒼の蜃気楼(6)
乾いた風の音がする。
数日ぶりに聞くその声に、オリヴィエはほうとため息をついた。
幾度聞いても慣れるものではない。
その下に生きるものすべてを、焼きつくすつもりか。
じりじりじり、灼熱の太陽は照りつける。
白い麻の布を深く被って、オリヴィエは先を急ぐ。
女王の命は未だ果たされぬまま。
加えてそれとは別に、急ぎたい理由がオリヴィエにはあった。
「夢の守護聖様に望まれるのです。
娘にとって、これ以上の果報がありましょうか。
けれど……、お怒りにならずお聞きください。
気まぐれに望まれて打ち捨てられるのでは、娘があまりに不憫。
いかがでございましょう。
ひと月の間、お待ちいたします。
その間にお迎えくだされば、隣国との縁組は是非もございません。
取りやめにいたしましょう。」
王女を聖地に連れてゆきたいと願い出たオリヴィエに、初めこそ驚いたらしい国王も、やがて落ち着いて、オリヴィエに条件を提示した。
それは小国とは言え、一国の王には相応しい判断であったし、また娘の行く末を案じる父親としても、当然の思いであったろう。
オリヴィエはその条件を飲んだ。
「ひと月……だね。」
きっぱりと受けて立つと、その後すぐに出立の仕度にかかる。
そして昨夜遅く、城門を後にした。
王城の一番高い塔の窓には、愛しい娘の姿があった。
夜空の星を映したような煌めく瞳を瞬きもせず、ただオリヴィエだけを追う視線。
「必ず戻るよ。」
戻らずにおくものか。
軽く手を振って見せると、娘も手を上げた。
白い手を小さく振って、唇が動く。
「ご無事で……。」
泣きだしそうな蒼い瞳。
目を閉じれば、いつでも鮮やかに蘇るその深い色。
「急ぐよ。」
従順ならくだは主の意をくんで、急ぎ足で進む。
ひと月。
余裕をもって戻れる日数であった。
女王の命を果たしたその帰途のこと。
小さなオアシスで、凶報を聞いた。
「な……んだって……?」
喉に張り付いた声。
頭を後ろから思い切り殴られたような、どんと強い衝撃がオリヴィエを襲う。
「砂嵐だそうです。」
努めて平静であろうとする補佐官の声も、震えていた。
「3日前、ひどい砂嵐があったそうで、この辺りの国がいくつか砂に沈んだと。」
砂に沈んだ。
その言葉が、オリヴィエの頭の中でぐるぐると回る。
「ロザリアも……、あの娘も砂に飲まれたって言うのかい!?」
高い声を上げて、オリヴィエは天幕の外に飛び出した。
これは間違いだ。
きっとそうに違いない。
こんな辺境では、誤報など珍しくもない。
自分に言い聞かせ、言い聞かせ、それでも不安でたまらず大きな声を出す。
「発つよ。
すぐに、今すぐに。」
さらさらと砂が舞う。
白い細かな粒子の砂が、風に混じってオリヴィエの頬を叩く。
何もなかった。
確かにそこに在るはずの城門も王宮も、棗の木々も、何もない。
オリヴィエは茫然と、ただ立ち尽くした。
信じられるはずもない。
国一つ、砂に沈んだ。
彼の愛しい娘もまた、この砂の下に沈んだなどと。
銀の月がオリヴィエを照らし、砂漠を渡る風が、ひゅるひゅると耳元で囁いてゆく。
「あきらめな。
人の世では、珍しいことじゃない。」
達観した老人のように、真実をつきつける。
泣くことを、オリヴィエは忘れていた。
泣けるのは、まだ救いのある時である。
彼の救い、ただ一人ほしいと願った娘は、もうこの世のどこにもいない。
凍てついた心は氷のようで、もはや何も感じない。
ふと、風が止んだ。
満天の星が瞬く音さえ聞こえそうな静けさが、辺りを包む。
「オリヴィエ様。」
天上の絹の声。
星の瞬く度、繰り返し彼の名を呼ぶ。
「ロザリア!
ロザリア、あんた何処にいるんだい?」
弾かれたように顔を上げ、天上の星々に向かって声を上げる。
「オリヴィエ様。」
また呼んだ。
「ロザリア!
出てきておくれ。」
声を枯らして叫んでも、満天の星が瞬くばかり。
「ロザリア!」
悲痛な声を上げて、砂の上に膝をついたオリヴィエの頭上に、リュートの深い爪音が響く。
続く絹の声。
あの夜、もう一度聴かせてほしいとオリヴィエがねだった、その曲であった。
天上の声は歌う。
今は悲しみに沈んでも、けしてあきらめはしない。
いつかその先に、きっと幸せが見えるだろうから。
最後の爪音が響いて、月の光に溶けた時、オリヴィエの頬に暖かい涙が伝う。
「そうだね、ロザリア。
あきらめるのは嫌だと、私は言ったっけね。」
立ち上がって、膝の砂を払う。
満天の星々を振り仰いで、微笑して見せる。
「待つよ、ロザリア。
大丈夫、私たちはきっと会えるから。」
夢の守護聖オリヴィエが聖地に戻るのは、それから2週間の後であった。