Eine Rückkehr ~帰郷~ (5)
休日の朝。
靄のかかった景色を見下ろして、ロザリアは大きく息を吸い込んだ。
生まれたての朝の陽を浴びながら、バルコニーへ舞い降りた小鳥に微笑する。
「おはよう。
良い朝ね。」
口調が甘い。
それは約束のせい。
この後すぐに、窓の下に立つだろう人の姿を思い描くと、心が浮き立つのをとめようもない。
「ばあや、手伝ってちょうだい。
急いで仕度をするから。」
乳母を呼ぶその声も、やはりどこか甘かった。
週末、急に誘いがあった。
「次の休日、何か予定はあるか?」
何を言われたものかと、すぐにはわからずにいると、
「どうした?
予定がないのであれば、遠乗りにでもと思ってな。」
微笑んで、その人は続けた。
「喜んで。
喜んでご一緒いたしますわ。」
ようやく事態がのみこめて、一息に答える。
「馬は久しぶり。
楽しみですわ。」
その朝も、生家から連れてきた愛馬と駆けたばかりであったのに。
金色のまつげの下、瑠璃色の瞳がやわらかく笑った。
「では、私も楽しみにしている。」
どきんどきんと音をたてる胸を右手で押さえ、金色の髪をした貴公子の背を見送った。
すっかり姿がみえなくなって、ロザリアはかけ出した。部屋へ戻るなり乳母を呼ぶ。
「ばあや!
ばあや、いて?
ジュリアス様がわたくしに…。
遠乗りに行こうって、ばあや!」
透き通る陽射し、緑の匂い。
森の小道を駆けながら、ロザリアの胸は弾んでいた。
少し先を行く白い馬。
その背には、白いシャツの貴公子がある。
まばゆい金色の髪をひとつに束ね、軽快に馬を跳ばす。
なんと美しい人なのだろう。
うっとりと見蕩れるロザリアの前、木漏れ日がその人に降り注ぐ。
きらきらと輝くその下をくぐるほんのわずかの瞬間、ロザリアは息を飲んだ。
まるで天上の光をまとったよう。
そう思った時、ロザリアは自分の胸の思いがふいに空恐ろしくなる。
彼は、光の中の光。
この世の光のすべてを統べる人。
神々しいまでに美しいその人に、自分はなんと俗な感情を持ったものか。
尊敬、憧れ、それまでなら良い。
けれどその先は、許されない。
その先、彼に恋をして、その心を望むなど、大それた望みも良いところだ。
彼にとってロザリアは、次期の女王候補、それだけである。
その優しい言葉も微笑も、ロザリアが次期の女王候補であるからこそのもので、
「順調のようだな。」
執務室を訪れる度、そう言って迎えてくれるのがその証ではないか。
女王にならぬロザリアは、彼、ジュリアスにとって、言葉をかける価値さえない存在なのだ。
それを自分は勝手にのぼせて、朝から胸をときめかせて。
「ばかだわ。」
もう一人の女王候補、お気楽な友人の顔を思い出す。
「あの子が悪いのだわ。」
眉を寄せて唇をかむと、ロザリアは馬の耳元で鞭を振った。
ひゅるん。
軽いうなりに、速度が上がる。
敏感に反応した愛馬の首をぽんと叩いて、
「いい子ね。
さあ、行きましょう。
いつもみたいにね。
おまえの足をみせてちょうだい。」
前を行く、白い馬を追い抜いた。
脇目も振らず、まっすぐに。
「どうした?」
湖のほとり、水を飲む愛馬をぼんやりと眺めていると。
「何かあったのか?」
気遣わしげな声。
胸の動揺は、まだおさまってはいない。
耳をふさぎたい思いで、ロザリアはかぶりを振った。
「何も…。
何もありませんわ。」
「そうか。」
それ以上は聞かない。
どんな表情をしているのだろう。
振り向きたい思いを、ロザリアは押さえつけた。
きっとすぐに見透かされてしまう。
ジュリアスの瑠璃色の瞳の前に、嘘などつきとおせるわけがない。
何もかも、すべてを見透かされ、失望される。
それだけは嫌だった。
沈黙を守るロザリアの背中で、かさりと乾いた音がする。
「生家の領地に、こことよく似た場所があるのだそうだ。」
思ってもみない言葉が急に。
思わず振り向いた。
大きな楡の木の下に、片膝を立ててジュリアスは座り込んでいた。
瑠璃の瞳は天を仰いでいる。
「6歳で聖地に上がった私を心配したのだろう。
ほんのしばらくの間だったが、母のはからいで乳母がつけられていたことがあってな。
その時、聞いた。
ここが私の領地によく似ていると。」
天に向けられていた瑠璃の視線が、ゆっくりと地上のロザリアに戻された。
「どこにいても、私は私だと。
生家のその場所は、いつも私を待っているのだと、母はそう言ったそうだ。」
守護聖の出自は、公式には伏せられる。
首座の守護聖であるジュリアスが、生家について何かしらでも口にするのはとても珍しいことだった。
どうしたのだろう。
お寂しいのだろうか。
突然の言葉、その真意を測りかねるロザリアに、ジュリアスは微かに笑ってみせる。
「どうした?
おかしいか?
私にも幼い日々は、あったのだぞ。」
「いいえ、ただ驚いて。
ジュリアス様が昔のことを話してくださるなんて、初めてですわ。」
いろいろと取り繕う余裕などなくて、心のまま素直に口にする。
「守護聖も女王も、似たようなものやもしれぬ。
そう思ったのだ。
おまえを見ていると、昔のことを思い出す。」
ああ、やはり。
ロザリアは目を閉じて、胸の動揺を隠した。
女王。
ジュリアスは彼女が女王になるのだと、期待している。
寂しくても、それは仕方のないことだ。
女王、守護聖の名誉、光栄と引き換えにする孤独には、頭を上げて耐えねばならぬと。
そう言いたいのだろう。
「お気遣い、おそれいりますわ。
わたくし、きっとジュリアス様のご期待に沿うよう致します。」
だからそう答えた。
それが彼の望む答えだったから。
ふと、ジュリアスの微笑が消えた。
わずかの沈黙がある。
瑠璃色の瞳に何かが浮かびかけたが、
「そう…か。
期待させてもらおう。」
そう答えたジュリアスは、いつもの彼だった。
「そろそろ戻るぞ。」
すらりと立ち上がる。
ロザリアの騎乗を補助すると、後は振り向くこともしない。
そのまま元来た小道を駆けてゆく。
その様子があまりに不自然で、ロザリアは不審に思った。
何かご不興を買うようなことをしたのだろうか。
考えても考えてもわからない。
来た時よりも尖って見える白いシャツの背中を、追いかけることしかロザリアにはできなかった。