Eine Rückkehr ~帰郷~ (7)
しっとりした闇の覆う聖地。
女王のお膝下でもあり、普段不行状を咎められる者も、さすがにここでの無遠慮は慎むようで、しんとした静寂と穏やかな闇が、いつも変わらず心地よい。
私邸を出たオリヴィエが向かうのは、女王候補の住まう特別寮であった。
そこでおそらくは萎れているだろう少女に、声をかけてやろうと思う。
らしくないと、自分でも苦笑した。
これまで特別親しく声をかけたことさえなかった自分が、こんな事態になって同情でもしたというのか。
たった一度見ただけの、あの綺麗な笑顔のために?
自分に向けられたものでもない笑顔のために、夜、こうして。
気まぐれと笑い飛ばすには、少々行過ぎていた。
らしくない。
自分の行動がオリヴィエを不快にさせる。
戻ろう。
そう決めた時には、庭園の入り口にさしかかっていた。
オリヴィエの私邸に続く小道が、その中にある。
近道をしようと足を踏み入れる。
そこで足が止る。
広場中央、女王の像の前に。
今の今まで、オリヴィエに「らしくない」行動をとらせてくれた当の本人。
ロザリアだった。
女王の像を、ロザリアはじっと見上げている。
その背中が頼りなくて、オリヴィエは思わず傍へ歩み寄っていた。
「おや、珍しいね。
こんな時間に。」
少し離れた場所から、そっと声をかける。
よほど驚いたのだろう。びくりと肩を揺らして、彼女は振り向いた。
「オリヴィエ様。」
女王の像の前に立つ彼女の心情は、おおよそ察しがついたが、まるで気づかぬふりをする。
「あんたに夜の散歩を楽しむ趣味があるなんてね。
良いものだろう?
夜の庭園もさ。」
大理石の階段の上、女王の像に視線を戻したロザリアが首を振った。
「月がありませんのね。
今夜は。」
月?
言われてオリヴィエは空を振り仰ぐ。
なるほど月はない。新月の夜だと、思い出す。
「月の夜、陛下の像が美しく輝くのを見ましたの。
それはとても綺麗で。
でもいつも見られるわけではないと、おっしゃっておいででしたわ。
今夜は、無理ですわね。」
寂しげな口調。
かわいそうにと思う場面である。
それなのに、オリヴィエは眉を寄せていた。
月の光に輝く女王像、それを見せたのは誰か。
「おっしゃっておいででしたわ。」
ロザリアがあえて口にしなかった主語。
それが、オリヴィエの気に障る。
一点の染みもない、瑞々しいバラの花びらのようだった少女が。
肩を落として、泣きそうな顔をして。
それでもまだ、過ぎた時間に優しかった男の像を追っているロザリアが、無性に腹立たしい。
「おいで。」
言いざま、細い手首を引き寄せた。
「場所を変えるよ。
ついておいで。」
息のかかるほどの距離で、オリヴィエはもう一度そう言った。
そのまま彼女の手を引いた。
「オリヴィエ様。」
不安げな声にも振り向かない。
今はただ、彼女をそこから連れ出したかった。
そう遠くない過去、まだ生々しい記憶の残像から、少しでも遠くへ。
庭園の小道を、奥へ奥へと進んだ。
迷路のように分かれる小道を、オリヴィエは迷いもせず。
闇の中をどれだけ歩いたか。
ふいに辺りが白く明るく輝いて、視界が開ける。
闇に慣れた目を細めて、ロザリアは幾度か瞬きをした。
森の湖?
だんだんに慣れてきた目に映る地形は、確かに森の奥にある湖だった。
けれど景色は、まるで違って見える。
湖水はきらきらきらきら輝いて、緑の木々さえ銀色に染めていた。
滑らかな水面は氷のようで、踏み出せばそのまま向こう岸まで歩けるのではないか。
幻想的な景観に魅せられるロザリアに、よく響く優しい声が言った。
「上をごらん。」
「上?」
言いながら顔を上向ける。
途端。
乳白色の光の帯が、ロザリアの視界を覆いつくした。
それは幾万幾億の星の輝き。
圧倒的な量感をもって、ロザリアの声を封じるほどの。
「月がないと、あんたは言ったけど…。
ないからこそ、見えるものだってあるんだよ。」
円い柔らかな声が、心地よくロザリアの胸に響く。
「過ぎた時間を懐かしむのは、年寄りの特権さ。
あんたには、まだその資格がない。」
冗談めいた口調に、ロザリアの心の鎧はもろく崩れた。
何も言ってはいないのに。
ジュリアスに避けられて動揺し、見るも無残に平静を失った自分の胸の内を、ロザリアは誰にも話すことができなかった。
そんな惨めったらしいことは、ロザリアの誇りが許さない。
だからいつも以上に気を張って、誰にも何も気取らせないように振舞ってきたのに。
気づかれていた?
恥じる気持ちはまだ残っていた。
普段のロザリアなら、この場にいることさえ屈辱であったろう。
けれど今、空を横切る光の帯と優しい声に、ロザリアは酔っていた。
穏やかに柔らかく彼女の胸に染み入るその声に、ロザリアの心はようやく息を取り戻す。
温かい血が全身を巡り始め、気がつけば泣いていた。
ぼろぼろと流れる涙を拭いもせず、どのくらいそうしていただろう。
やがて涙も尽きる頃、ロザリアは深々と一つ息をする。
目を閉じてまた一つ、今度は大きく深呼吸。
そしてしっかり背を伸ばし、蒼い瞳を開く。
「見苦しいところを、お見せいたしましたわ。
申し訳ございません。」
それはもう、いつものロザリアだった。
気位の高い、凛とした少女。
生気の戻ったその口調に、オリヴィエはふっと微笑した。
「何を?
何を謝るんだい?」
ひらりとジョーゼットの袖が舞う。
長い指がロザリアの頬を捉え、間近にブルーの瞳が迫る。
「夢さ。
明日になれば、綺麗に忘れてしまう、これは夢だよ。
だから、今は楽しいままでいよう。
夢…なんだから、これはね。」
夢。
そうかもしれないと、ロザリアは思った。
目の前にあるのは、誰よりその言葉に相応しい夢の守護聖オリヴィエである。
その人のみせてくれた、これは極上の夢。
夢ならば、素直に言える。
「ありがとうございます。
オリヴィエ様。
とても美しい、気持ちの良い夢ですのね。」
作り物でない微笑。
素のままのロザリアの、綺麗な微笑を添えて。