Valse~Au revoir~ (1)
その夜、聖地は穏やかな静けさに包まれていた。
夜が明ければ、現女王は退き、新たに選ばれた女王が立つ。
歓喜と熱狂とを前にして、とりわけ粛々と夜は更けてゆく。
時計の針は、既に午後8時を回っていた。
ちらりと壁の時計を見やってから、フレームレスの眼鏡越しに上司の姿へと視線を戻す。
この青年が光の守護聖付きの補佐官に就任して、5年。
夜を徹しての執務がないわけではないが、明日は戴冠式という今夜、首座の守護聖である上司に、こんな時間まで残って片づけねばならぬ至急案件があるだろうか。
ぼんやりと執務机に沈む首座の守護聖ジュリアスは、いつになく覇気を欠いて見えた。
少しためらった後、控えめに声をかける。
「僭越ながら…。」
ジュリアスの碧い視線が上がる。
思いの迷路から引き戻されたのか、瞬時に常の謹厳な表情に戻る。
「僭越ながらジュリアス様。
明日はお忙しくおなりでしょう。
今日はもう、お屋敷でお休みください。」
上司の内心を詮索するつもりはない。
だがあきらかにいつもと違うその様子が、心配であった。
「ああ、そうしよう。」
唇の端をほんの少しだけ緩めて、ジュリアスは穏やかに答える。
「そなたも遅くまでご苦労であった。
もう、下がって良い。」
自分が下がりたいのではない。
あなたが心配なのだと言いたかったが、それこそ僭越というものだ。
返事の代わりに、恭しく頭を下げた。
そして執務室の重い扉を、静かに閉じた。
扉が完全に閉じられて、ジュリアスは軽く黄金色の頭を振った。
ジュリアスが執務室にぼんやりとしていれば、補佐官だけが帰れるわけもない。
その程度の気遣いも忘れるとは…。
<わたしは、何をしている。
何を動揺しているのだ。>
自身の心の内にあるその原因に、十分心当たりはあった。
まだ何も伝えていない。
始まってもいない恋が、胸の内でぶすぶすと燻っている。
だがその想いを、認めることはできても許すことはできないジュリアスであった。
どうして許せるだろうか。
ただ一人、心から愛するその人は、明日、至高の座へと上り、宇宙をあまねく統治する女王となる。
首座の守護聖である彼が、どうしてそれを阻めよう。
執務机の上で組んだ長い指が、小さく震えた。
どのくらいの間、そうしていたことか。
ふと視線を上げると、部屋の隅に置かれたチェストテーブルの上に、白い天使の羽がひらひらと舞っている。
女王候補と守護聖の連絡用にと、女王から賜った手紙の精霊が、微笑みながら赤い封蝋の手紙を差し出して、すぅと消えた。
白い上質の紙をくるりと巻いて、赤い蝋で封をした古風な手紙。
差出人が誰であるか、すぐにわかった。
銀のペーパーナイフで、そっと蝋を外すと、開かれた白い紙にはあるのは、たった一行。
「お待ちしています。」
流れるような飾り文字で、右下に署名があった。
ロザリア・デ・カタルヘナと。
「屋敷へ戻る。
馬車の用意を。」
瞬間、そう命じていた。
夜道を急ぐ馬車の中で、ジュリアスは金の眉を寄せていた。
なぜこんなに遅い。
急げと、声にしてしまいそうな自分を、息をひとつして戒める。
常と違う振る舞いに及べば、後できっと人の口にのぼる。
謹厳な光の守護聖が、慌てふためいてどこへ行ったものかと。
今宵、彼が向かう先を、他の誰にも悟られてはならない。
そう己に言い聞かせると、ジュリアスはもう一度深く息をして、柔らかな背もたれに、ゆったりとその長身をあずけた。
数分後。
馬車は静かに止まる。
光の守護聖の私邸、車泊り。
白い大理石のポーチに、恭しく頭を下げる老執事の姿があった。
白い愛馬が、光のように駆ける。
長い付き合いであれば、主人の思いなど、とうにお見通しなのだろう。
まかせておけとばかり、暗闇を全力で駆けてくれる。
白い息を上げて、馬が歩を緩めたのは、聖殿からすこしばかり離れた小ぶりの館の前だった。
二人の女王候補が、今日までを暮らす館。
そして明日からは、無人となる館である。
ジュリアスはできるだけ静かに馬の背から下りると、館から少しだけ離れた木陰に、馬をつないだ。
「ここで待っていてくれ。」
黒い大きな目で主人を見つめる白馬は、ジュリアスの背を鼻先で押し出した。
早く行けと、そんな風に。
ジュリアスの中にあった、硬く熱すぎる塊が、ふっと溶けた。
ようやく緩んだ冷たい頬が、きれいな微笑を作る。
礼のかわりに2度、愛馬のほほをそっと叩いた。
忍びやかな3度のノックの後、扉は内から開かれた。
ジュリアスを見上げる蒼い切れ長の瞳に、儀礼上の微笑を浮かべる余裕さえ、今はなかった。
「夜分に…。
ありがとうございます。」
昨日までにない、翳りのある微笑を浮かべて、今日までの女王候補ロザリアはそっと腰を落とした。
優雅なその礼も、受けるのは今この瞬間が最後になるだろう。
明日からは、自ら頭を低くすることなど許されない身になるのだから。
「ジュリアス様。」
柔らかな声で、彼女が呼びかける。
「約束を、覚えておいでですか?
わたくしが女王に選ばれたら、1つだけ、なんでも言うことをきいてくださると。」
戯れにねだられて、確か、頷いた覚えがある。
試験も中盤にさしかかろうという頃のこと。
「ああ。
覚えている。」
「では…。
きいてくださいますわね。」
泣いているように見える微笑で、ロザリアは言った。
そして背を向けると、飾り棚の隣に置かれた、古い蓄音機の傍に立つ。
手慣れた指が、そっと銀の針を落とす。
じじじじ…と、銅のホーンが小さく鳴った。
軽快なピチカート、ゆったりと長調のワルツが流れ始める。
ロザリアが大好きだと言った、バレエの一幕目に使われる曲。
いつかその時がきたら想う人と踊りたいのだと、ほほを染めて確か彼女はそう言った。
「踊っていただけませんこと?」
言葉の大胆さとは裏腹に、その声はかすかに震えていた。
複数の感情が入り乱れた青い瞳は、泣き出しそうにさえ見える。
返事のかわりに、ジュリアスは左手を差し出した。
震える小さな右手が重なると、ロザリアの背を軽く引き寄せる。
華やかな王宮舞踏会、王子の誕生祝の場面で流れる、きらびやかなワルツ。
ロザリアの青いシルクシフォンのドレスが、ふわりと優雅に宙を舞う。
まるで重みを感じさせないステップは、妖精のようだとジュリアスは思う。
見事だと賛辞を贈ろうとして、口をつぐんだ。
当然だと思い直して。
ロザリアという少女には、ワルツどころかバイオリンやピアノ、絵画に乗馬、およそ貴族の娘が身に着けるべき、すべての教養が備わっている。
それも最上級の。
そんな陳腐な賛辞ではなく、もっと他に伝えたいことがある。
今、この時を逃せば、二度とはない機会に、伝えておきたいことが。
「ロザリア…。」
名を呼ぶと、白い小さな顔が静かに上向いた。
細く長いまつ毛は伏せられて、その下の表情を隠す。
ジュリアスの左手にある白い小さな手は、ひんやりと冷たい。
<本当に女王になるのか。>
口にしようとして、ジュリアスは目を閉じた。
何を愚かなことを。
現女王がその力を使い果たすまで、もはやわずかの猶予もない。
速やかに、可能な限り速やかに、次期の女王は立たねばならない。
知ってなお、問えるのか。
<本当に女王になるのか。>
小さく首を振って、ジュリアスは己のばかげた衝動に耐えた。
その様を見上げていたロザリアは、口にしかけた音を飲み込んで、視線を下げる。
「お礼を申し上げますわ、ジュリアス様。」
静かな声。
ジュリアスの胸に伏せられた白い顔の、表情はよめない。
礼。
願いをかなえてやった礼か。
そうではあるまい。
おそらく、ロザリアは知っている。
ジュリアスが口にしようとした言葉、そしてそれを飲み込んだことを。
ロザリアもまた同じ思いを抱えて、ジュリアスに告げぬまま、明日即位する。
他の誰にわからなくとも、彼にはわかる。
おそらくロザリアも。
流れるワルツも終盤に差しかかり、華やかなコーダが、ジュリアスのリードを速くする。
引き寄せられるようにロザリアのステップも速く、大きくなり、やがて幾重にも重なる重厚な音が、夢の時間の終わりを告げた。
7分。
わずか7分の、夢の時間が終わる。
そっと外されたロザリアの右手を、反射的にジュリアスは引き戻す。
じりっ…と蝋燭の芯の焼けつくような音を、ジュリアスは身の内に聞いた。
「ジュリアス様…。
わたくし、本当は…。」
迸るように口にしかけたロザリアを、抱き寄せる。
「言うな、ロザリア。
その先を口にしてはならぬ。」
ぎりぎりの理性で、ようやく抑え込んだ熱だった。
それ以上を聞けば、どうなるか。
この宇宙の存続を、恋の熱と引き換えにできるジュリアスではない。
それはロザリアも同様であるはずだった。
「明日、そなたは女王になる。
そして私は女王となったそなたに、心からの忠誠を誓おう。」
幾度となく口にしたその言葉で、二人の距離を取り直す。
告げない言葉を飲み込んで、ジュリアスはそっと腕をほどいた。
「明日は忙しくなる。
もう休め。」
どうやって部屋を出たものか、覚えていない。
気づけば闇の中を駆けていた。
冷たい夜気が、身の内の芯までを凍らせる。
私邸までのわずかの距離が、時間が、現実のすべてのことが、遠く遠く感じられた。
翌朝、ロザリアは女王の冠を戴いた。