萱葺きの城(1)

カッと、大きな後ろ蹴り。
優雅に身体をしならせて、栗毛の牝馬が後背の牡馬を袖にした。
それでも牡馬の方はまだ未練たっぷりで、うろうろと彼女を遠巻きに回る。
うかがうような彼の視線。
けれど彼女は一顧だにしない。
本当に、一瞥も与えなかった。

「ああ、また駄目ですよ、公爵さま。」
カタルヘナ家の牧場を預かる管理人が、首を振ってため息をついた。
柵の向こうに放された2頭の馬は、この牧場でも最高の血統を誇るサラブレッドの一対である。
特に今年で10才になる牝馬の方は、おそらく好事家なら誰でもその名を知る、優秀な繁殖牝馬のうちの1頭だった。
5歳でレースを引退してからずっと一年おきに仔を産んでいるが、その仔たちは信じられない高値で取引される。
その彼女、レディージンジャーを、カタルヘナ家の当主が買い取ったのはこの冬のことである。
もちろん目の飛び出るような金額で。
カタルヘナ家では彼女の仔を金銭に換える必要などなかったから、仔はそのままこの牧場の新しい宝になる。
牧場関係者は皆一様に、その仔の誕生を待っているのだ。

待っているといえば、カタルヘナ家の当主も人後に落ちない。
馬道楽の公爵は、自ら彼女の種付けの相手を選び、その交配にも立ち会う熱心さである。
だからこの交配の度重なる失敗は、彼の機嫌をすこぶる悪くしていた。
「一体どういうことだ!
これでもう、3頭目ではないか!
何が気に入らないと言うのだ?」
イライラと乗馬用の鞭で柵をたたきながら、じろりと管理人を睨めつける。
濃い青の瞳がただでさえ冷たい印象を与える公爵に見据えられて、管理人は目を落としもごもごと口ごもった。
「私どもにも全く訳がわからないのです。
ただ、相性が悪いのだという他は・・。」
「相性だと?
皆どれも最高の血統の優秀な馬ではないか。
どこをさがしてもあれ以上のものはないほどの馬たちだぞ!
それを・・・。」
「当て馬には、この馬はなんと言うか優しいのです。
不思議なことに。
ですが、いざ種付け用の牡馬が近づくと見ての通りの有様でして・・。」
優秀な種付け用の牡馬には、その馬によく似た当て馬がついている。
血統やレースの成績のぱっとしない牡馬が、優秀な牡馬の種付けを滞りなく運ばせるために、彼に代わって牝馬をその気にさせるのである。
そして牝馬がその気になったところで、主と交代する。
影武者のようなものかもしれない。
「ばかなことを!
当て馬の方がいいというのか!」
公爵の怒気をはらんだ瞳が、悠々と草を食む件の牝馬に向けられる。
「まさにジンジャーだな!
なんときつい気性の馬か!」

「お父様、あの馬の仔をわたくしにくださらない?」
訓練された美しい発音。
気位の高そうなはっきりとした口調。
公爵の後ろから交配の様子をじっと眺めていた少女が、父譲りの濃い青の瞳をぴたりとその贈り主に当てた。
「よろしいでしょう?」
来月で15才になるカタルヘナ家の一人娘。
公爵は、この愛娘の頼みに首を振ったことがない。
彼女が自分によく似た美しい容貌であることも、抜きん出て聡明な性質であることも、女王の資質を備えているらしいことも、すべてが彼の意に適う娘だった。
だから彼女の母とは冷たい関係の続く公爵も、この娘にだけは惜しみない愛情を注いでいる。
「もともとそのつもりで求めた馬だ。
あれの仔をおまえのためにと思ってな。」
公爵の口元がほころんだ。
きつい青の瞳が、慈愛深い父のものに変わる。
「だがな、ロザリア。
この調子では、種付けシーズン中に相手が見つからんかもしれんぞ。」
「かまいませんわ。」
匂いたつような微笑。
申し分のない貴婦人に育ちそうな我が娘を、公爵は惚れ惚れと眺める。
「あの馬が、その気になるまで。
わたくし、待ちますわ。」
欲しいものは何でも手に入る立場の彼女であった。
にも関わらず、彼女が自ら何かをねだることは滅多にない。
公爵はそれを寂しく思いながらも、何とかして自分の愛情を彼女に伝えようと、彼女が望みもしない珍しい贅沢な品々を次々と買い与えていた。
娘に対する愛情と負い目。
公爵の中に、その二つが同時に存在していたからでもあったろう。

彼女の母、彼の妻である公爵夫人は美しい女である。
カタルヘナ家と並ぶ名門貴族から、彼の元へ嫁して来た。
彼女の輿入れは、その当時世間を賑わすほどのニュースになったものだ。
美しい花嫁の姿に、誰もが彼を羨んだ。
だが実際のところ、その夫婦仲は決して良いものではない。
輿入れの直後から、彼ら夫婦は常によそよそしかった。
それは多分彼も彼の妻も共に、良くも悪くも貴族でありすぎたためだったろう。
貴族の婚姻は、家格でそのほとんどが決められる。
そこには、当人達の意思など入る余地はない。
名門貴族に生を受けた者の義務であるのだ。
彼も彼の妻も、それを当然のこととして受容れた。
そう教育されてきたから。
夫を、妻を、それぞれが愛することなど、はなから頭にないのだ。
それでも名門貴族の当主夫妻は、何年かは寝室を共にした。
嗣子をあげること。
これもまた、当主夫妻の義務であったから。
そして一人の女子をもうけた後、彼らは寝室を別にした。
以来ずっと、彼ら夫婦は常に住まう場所さえ同じにはしていなかった。
公爵はその後、幾人もの愛人を彼の館に招じ入れた。
何度かの出入りの末、彼は一人の愛人に落ちついた。
ごく最近のことである。
彼女は貴族の出身ではない。
ごく一般の家庭の娘であった。
素直で優しく温かい。
彼が教えることを、樹が水を吸うように覚えてゆく賢さも持ち合わせていた。
彼は彼女の傍で、初めてくつろいだ生活を知った。
その結果、当然のように男子が誕生することになる。
だがあくまでも庶子である。
この子の存在が、直ちにロザリアの地位を脅かすことはない。
彼は安心してその子を可愛がった。
そしてその傍には、いつも子の母がいたのである。
彼の館の空気は、その子を囲んで和やかで優しかった。
彼の周りには、いつも温かい笑顔があったのだ。
その幸せに気づいたとき、彼はふとロザリアを思い出す。
一体彼女の周りに、こんな温かな空気が一度でもあったろうか。
彼女も確かに彼の娘であるのに。
一方の子には温かい両親の愛情をふんだんに与えておきながら、もう一方の子には何も与えていないのではないか。
以前の彼なら思いもしなかったことを、この時初めて考える。
ロザリアはカタルヘナ家の次期当主である。
その立場は現当主である彼に次ぐものであったし、それに相応しい扱いを受けているはずだった。
彼も次期当主に相応しいロザリアの資質をことの他愛して、なんでも好きなようにさせてきたと思っていた。
だが、本当に彼女はそれで幸せだったのか。
実は15年近くも、放っておいただけではないのか。
名門貴族の子女とはそういうものだ。
現に自分も妻もそうだったのだ。
どんなに言い訳してみても、胸の底に黒いわだかまりが残る。
以来彼は、以前にも増してロザリアに贅沢な品を買い与えてきた。
そうするより他に、彼女との接点が見つけられなかったから。
彼の贈り物に、ロザリアはいつもきちんと礼を言った。
だが彼女が心から喜んでいるとは、どうしても思えない。
希薄な関係の父と娘は、さりげない贈り物を囲んで和やかに笑い合う事さえできなかったのだ。
そんな時、ロザリアの家庭教師から彼女が乗馬を好むことを聞いた。
よく一人で朝駆けに出かけるのだと。
今度こそ彼女を喜ばせることができる。
彼は急いで優秀な馬を探させたのだ。
彼女に贈るために。
そして、レディージンジャーを手に入れた。
法外な値段を吹っかけられたが、構うことはない。
ロザリアを心から喜ばせるためなのだから。

「おまえのいいようにすると良い。」
娘の珍しいおねだりに、公爵は満足そうな微笑で応えた。
「だがこれまで以上の牡馬となると、なかなか探すのも骨が折れるな。」
「そうですの?」
「他所から借りてくることになるだろうな。」
カタルヘナ家の牧場にいる種馬は、最高の血統と成績を誇る馬たちであった。
それ以上の馬となると、確かに難しい。
いないわけではないのだが、なんといってもすぐ傍にいるわけではない。
あちらこちらの牧場に散在していて、そこから移送してくるだけでも大変な時間がかかるのだ。
馬は神経質な動物である。
細心の注意を払ったつもりでも、長距離の移送につむじを曲げて、なかなか思うように交配ができないという話も聞いている。
やはりこの種付けシーズン中には、間に合わない可能性の方が高かった。

「ではレディージンジャーに選ばせてはいかが?」
公爵には思いもつかないことだった。
話にならぬ。
不快げに眉をひそめて、彼は首を振った。
「ロザリア、あのジンジャーは優秀な繁殖牝馬だ。
最高の血統の牡馬とでなければ、釣り合いがとれないのだよ。
おまえにもわかるだろう?」
「あら、でもその優秀な馬たちが次々と拒まれてるのでしょう?
当て馬まで使って、手助けしてもらってるのに。」
ロザリアがくすりと笑った。
「良さそうな馬たちと一緒に、レディージンジャーを放すの。
自分の力だけで彼女の傍に立てた馬に、父親の資格があるとわたくしは思いますわ。」
笑いを含んだ強い視線。
まだ未熟ながら、彼女は確かに次期カタルヘナ家の当主の器だった。
それを嬉しいと思いながらも、公爵はやはり首を振った。
「そんなことをすれば、優秀な種馬に怪我をさせるかもしれぬ。
いやそれよりも、必ずしも優秀な馬の仔ができるとは限らぬではないか。」
「お父様」
やんわりと、ロザリアが彼の言葉を遮った。
「わたくしの好きにしてよろしいのでしょう?」
彼の弱みを知り尽くしたような甘い笑み。
こんな顔で娘に頼まれて、嫌だと言える筈もなかった。
困ったことだと思いながらも、どこかで胸をくすぐられるような心地よさがある。
息だけの笑いを漏らして、結局彼は娘に屈服した。
「仕方ない。
約束してしまったのだったな。」
しぶしぶといった風に彼は苦い顔をして見せる。
「全くおまえにはうかつに物も言えぬ。
よく分かったぞ。」
言葉の強さとは裏腹に、彼の口調にはどこか優しい甘さも混じっていた。
「ありがとう!お父様。」
年相応の少女の顔で礼を言う娘を、彼は初めて見たような気がした。
ほころびかけた花のような、初々しい喜びの表情だった。
その顔を見られただけで、レディージンジャーを手に入れた甲斐もあろうというものだ。
次の交配からは、彼女の発案が試されることになるだろう。
サラブレッドの生産にとっては、あくまでも邪道なその方法を、公爵は半ば以上喜んで認める事になったのだった。

「ほら、もう直だ!
頑張れよ!」
お産用に整えられた厩舎には、血なまぐさい熱気が立ちこめていた。
レディージンジャーが産気づいたと管理人から知らせがあったことを知るや、ロザリアと公爵は急いで牧場にやってきたのだ。
馬のお産など淑女の見るものではない。
反対するロザリアの乳母をどうにか丸め込んで、二人はなんとかレディージンジャーの仔の誕生に間に合った。
母馬は既に破水して、薄い膜に包まれた仔の脚が見えている。
「さあ、取り出すぞ。
もう少しだ、頑張れ!」
獣医師と厩務員が口々に声をかける。
苦しげにいななく母馬の身体は、ぐっしょり汗にまみれている。
ずるずると脚の先が出てくるたびに、生臭い体液が寝藁を汚していた。
やがて人の手でつかめるほどに出てきた仔の足を、厩務員が用心深く引っ張った。
「さあ、出てくるぞ。」
厩舎の中の空気が一気に張り詰める。
何秒かの後。
半透明の膜に包まれた子馬が、ようやくすべての姿を皆の前にさらした。
「生まれたぞ!」
感極まった公爵の声。
後処理を手際よくすませる厩務員の傍で、獣医師が子馬の身体を乾いた布でぬぐっている。
濡れてぴったりと張り付いた毛の色は、濃い栗色。
きっと母と同じ栗毛の馬だろう。
危ういぶるぶると震える足で、子馬は立ちあがろうとする。
寝藁の上に何度も崩れながら、頼りない足でまた立ちあがる。
「しっかりなさい!」
ロザリアが、身を乗り出して声をあげた。
公爵と同じ色の瞳が、子馬の足下をじっと見つめている。
「さあ、もう一度!」
馬のお産とはいえ、彼女にとっては初めて見る恐ろしい光景だったろうに。
公爵は我が娘の気丈さに、笑いを漏らす。
「おまえは、どうやら私に似たようだな。
だが、その気の強さを隠す術も学んでおくのだぞ。
それではどんな名門貴族の男も逃げ出すことだろうからな。」
「わたくしは・・。」
強い視線が彼を振り仰いだ。
言いかけた言葉をロザリアは飲み込む。
「どうした?
気にしたのか?
私の前ではかまわないのだぞ。
ただ、他の男の前では考えろと言ったのだ。」
ロザリアの沈黙を恥じらいととった公爵は、あやすような調子で彼女の肩に手をかけた。
そのまま抱き寄せて背中を優しく叩く。
「おまえは魅力的な貴婦人になるだろう。
私が保証するぞ。」
「ありがとうございます。お父様。」
ロザリアの応えに先ほどの激しさはない。
彼の胸に顔を隠しているので、その表情もはっきりとは分からなかった。

「それにしても・・、もったいないことだ。」
公爵が目で子馬を追いながら、ぽつりと口にする。
「優秀な牝馬に、あんな二流の馬をつけることになったのだからな。」
ロザリアの希望どおりレディージンジャーの交配を行った結果、彼女が選んだのはかなりの高齢で成績もぱっとしない牡馬だったのだ。
その牡馬の名前を聞くまで、公爵は自分の牧場にそんな馬がいることさえ知らなかった程度の馬だ。
ロザリアの希望でもなければ、決してレディージンジャーにつけることなどないはずだった。
彼のその言葉にロザリアはなにも応えない。
ただそっと彼の胸を押しやって、産褥の床に横たわるレディージンジャーの傍に歩み寄った。
寝藁の上に膝をついて、彼女の鼻面を優しく撫でる。
「あの仔、わたくしにくれる?
きっと大切にするわ。」
大仕事を終えた疲労で、大きな黒い目が潤んでいる。
それがじっとロザリアの青い瞳を覗きこむ。
「おまえの仔ですもの。
きっと良い仔だわ。」
レディージンジャーの目が閉じられた。
大人しく、ロザリアの手に体を預けているようだ。

「ありがとう。」
ロザリアは、彼女の耳元でそっとささやいた。