萱葺きの城(20)

庭先の物音。
辺りを憚る小さな悲鳴。
オリヴィエの胸が高鳴る。
ばたんと、両開きの窓を開けた。
暗がりにうずくまる小さな人影。
胸の鼓動が速くなる。
間違えるはずなどない。
あれは・・・!

声をかけることさえ、オリヴィエは忘れていた。
ただ駆け出す。
わずか百メートルほどの門までの距離が、ひどく長いものに感じられた。
「また、やってしまいましたわ。」
ぺたりと座りこんで右足を投げ出したロザリアが、駆け寄るオリヴィエを笑って見上げている。
「やっぱり・・、鍵なしでは無理ですのね。
忍びこむのに苦労いたしますわ。」
以前そうしたように、ロザリアは彼女流のお忍びの格好をしていた。
軽装のスラックスに帽子。
とても女王のものとは思えない。
だが、そんなことはどうでもいいことだった。
オリヴィエは言葉もなく、ロザリアを見つめる。
ロザリアの青い瞳がそれに応える。
「愛人になりに参りましたの。
夢の守護聖の。」
綺麗な笑顔で、ロザリアはさらりと告げた。
オリヴィエの心を捕えた、あの美しい晴れやかな笑顔。
ぐうっと喉元にこみ上げる、感情の昂ぶり。
もう、抑える必要はない。
いや、抑えられない。
ひっさらうような乱暴さで、ロザリアの身体を抱き上げていた。

愛人になりに参りました。
その言葉が、オリヴィエを歓喜に導く。
女王である彼女が、彼の元へしのんでくるという。
それが彼女の出した彼への返事なのか。
喉に、胸に、熱い塊がこみ上げる。
言葉にはならない。
こんな時に使う言葉を、オリヴィエは何一つ知らなかった。
彼の腕にかかるロザリアの心地よい重み。
すべてを彼に預け、彼の胸に埋められた白い顔。
細い髪の一筋さえも愛しい。
もはや誰にも渡したくはない。
オリヴィエは、彼女を抱く腕を引き絞る。
ロザリアが顔を上げて、小さく首を振る。
「痛い、オリヴィエさま。」
その抗議に、耳を傾ける余裕はない。
そんな自分を情けなく思うゆとりさえなかった。
一刻も早く。
早く。
早く・・・、どうしたいのか?
自分の心に問いかけて、オリヴィエは微笑む。
決まっている。
逆らわないだけだ。
自分の心に。
その欲するところに。

玄関の扉は開いたままになっていた。
それを左に折れれば、リヴィングルームであった。
以前ここに忍び込んだ際、ロザリアはそこで足の手当てを受けた。
だから当然、今夜もそこへ連れて行かれるのだと思っていた。
ところが、オリヴィエは左に折れない。
「え・・?」
ロザリアは怪訝に思う。
見上げた先のオリヴィエの顔は、なんだか怒っているような表情をしていた。
それは思いをかなえようとじりじりと焦り、思いつめたオリヴィエの余裕のない表情だったのだが、そんなことはロザリアにはわからない。
足の手当てをしてくださらないのかしら?
この場に似つかわしくない、冷静な疑問を感じている。
「どこへ行くのですか、オリヴィエさま?」
オリヴィエの足が止まる。
「足・・、くじいていますのに。」
オリヴィエは、まじまじとロザリアを見つめる。
「オリヴィエさま?」
ロザリアの不安げな声。
「愛人になってもらうんだよ。」
オリヴィエの薄く形の良い唇が、いささか酷薄な印象を与える微笑を浮かべている。
優しげに見えるよう、オリヴィエはなるべく努力したつもりであったが、それでも内心の歓喜とそれに伴う焦りを完全に抑え付けるのは不可能だった。
だから彼女を見下ろした青い瞳にも、暗い危険な火がちらちらと燃えている。
「これから・・・、今すぐにね。」
そのまま階段を上がる。
腕の中で、ロザリアの身体が固くこわばっていた。
だが今度はもう、止まる気などなかった。
足早に、大きな歩幅で、彼は二階へ上がる。
寝室の扉が、目の前に見えていた。

いつもイライラしていた。
もうどのくらいの間、そうしていたかわからないほどの長い時間、ずっと落ち着くことのなかったオリヴィエの心。
けれどそれも今夜で終る。
これから先は、彼の心が何かに飢えて苛立つ事はない。
寝台の上にそうっと下ろしたロザリアを、オリヴィエは万感の思いを込めて見つめる。
触れるのが怖いような気がした。
触れてしまえば彼女の存在が、泡のように消えてなくなるのではないか。
埒もない考えが浮かぶ。
抑えすぎた渇望がそんなことを思わせるのか。
「ロザリア。」
かすれた声で名を呼んだ。
彼女の帽子をとる。
閉じ込められていた見事な長い髪が自由を取り戻し、ふぁさりと音を立ててこぼれた。
緊張と不安に揺らめく濃い青の瞳が、彼を見つめる。
腕を伸ばす。
抱き寄せる。
彼女の香りを心ゆくまで、オリヴィエは胸に吸い込んだ。
「これから先は・・・、ここがあんたの帰る場所だよ。
そして・・・・、わたしのね。」
胸に埋められたロザリアの小さな顔が、はっきりと頷くのをオリヴィエは感じた。
手に入れた。
ようやく彼の居場所を。
微笑が浮かぶ。
安らかで穏かな微笑。
オリヴィエはゆっくりと、ロザリアの身体を横たえる。
そして、唇を重ねた。

新女王の即位でにぎわう聖地の片隅。
夢の守護聖の私邸は、しんと静まり返っている。
灯りもほとんど落とされて、物音一つしない。
けれどただ一つの窓にともった灯りが、暖かく屋敷全体を包み込む。
それはとても小さくて弱い光であったけれど、オレンジ色の優しい輪となって漆黒の闇に溶けてゆく。
聖地の冬はもうすぐ終る。
じきに、春であった。