Fever
「あいにく、今はどなたにもお目にかかりたくはないと、そうおっしゃっておいででして。」
初老の執事が、申し訳なさそうに首を振る。
夢の守護聖の私邸、その玄関前。
整えた細い眉を寄せて、ロザリアは気遣わしげに寝室辺りを見上げる。
「お加減はいかがですの?
ずいぶん、お悪いのかしら?」
半円に突き出した白いバルコニーの奥、背の高い窓には厚いカーテンがしっかり引かれている。
こんなことは初めてであった。
「いらっしゃい、ロザリア。
待ってたよ。」
邸の門をくぐるか、くぐらないか。
バルコニーに立ったオリヴィエが、軽く手を振って迎えてくれる。
いつもなら……。
おかしい。
さらに眉を曇らせるロザリアに、首座の守護聖のなだめるような声がかかる。
「体調が悪いのであれば、仕方あるまい。
また明日、出直すとしよう。」
振り向かぬまま、ロザリアは頷いた。
「そう…ですわね。
また明日、明日参りましょう。」
本当にどうしたというのだろう。
あの陽気なオリヴィエが、女王の名代の見舞いにも会いたくないなどと。
そんなに具合がわるいのだろうか。
明日また、そう言いながら、ロザリアには気にかかる。
ぐずぐずとためらっているらしい彼女を、首座の守護聖が促した。
「さあ、ロザリア。
明日、また来れば良い。
屋敷まで送ってゆこう。」
門前に停めた馬車が動き出しても、ロザリアの蒼い瞳は、灯りの消えた窓をじっと見つめていた。
馬車の遠ざかる音が消えて、オリヴィエはようやくカーテンを開けた。
夕方になってさらに上がった熱が、彼の意識を朦朧とさせてはいたが、先刻ロザリアが見せた表情、その映像は驚くほど明瞭である。
幾度もこちらを見上げて、気遣わしげに眉を寄せた彼女。
蒼い視線の不安げな揺らめきに、義務以上の何かを期待してしまう自分に、オリヴィエは苦笑する。
「バカだね。」
17才で聖地に上がるまで、名門貴族の令嬢として、それこそ風にも当てられず育った娘である。
淑女の儀礼、女王への忠誠は知っていても、自分は女で、それも極上の魅力的な女で、周りの男たちを惹きつけてやまない存在なのだとは知らないでいる。
だからオリヴィエも、大人の男の激情を、そのまま彼女に見せることはしないできた。
免疫のない彼女にそんなものを見せれば、怖がらせておしまい。
その先はない。
親しげな微笑に陽気な声で、
「おや、うかない顔をしているね。
何かあったのかい?」
少しづつ、少しづつ、彼女の心に近づいた。
細心の注意で。
元々そう気の長い方ではないオリヴィエだが、ことロザリアに関してだけは例外らしい。
嫌われるのが怖かった。
「わたくしは、貴方をそんな風には思えませんわ。」
男女の機微に疎い、情け知らずの唇が、もしオリヴィエを拒んだら。
そんなことにはけしてならないようにと、なけなしの忍耐を総動員して、オリヴィエは待った。
彼女が補佐官に就任して1年、そろそろ彼の忍耐も底をつきかけている。
それなのに……。
つい先ほど垣間見た光景が、沈んだ青の瞳に暗い火を熾す。
金色の長い髪をした光の守護聖の、あの視線。
背を向けたロザリアに向けられたあれは、オリヴィエの視線と同じものだとすぐに気づいた。
幸いロザリアは、それにまるで気づいてもいない様子であったけれど、それでもオリヴィエの胸は焼け付くようだった。
「冗談じゃない。」
そろそろと迫る夕闇に、ガウンの長身を翻し、寝室に戻る。
熱はさらに上がったらしい。
身体がだるかった。
寝台の上で目を閉じる。
「ごめん、ロザリア。
もう待ってはあげられない。」
形の良い唇の端が、僅かに上がった。
どのくらい眠ったものだろう。
いくらか熱は下がったらしく、マシな気分にはなっていた。
階下に来客があるらしいと気づいたのは、サイドテーブルのデキャンタに手を伸ばした時だった。
控えめなノックの音が3つ。
「起きておいでですか?」
扉の向こうで執事の声がする。
「ああ、起きてるよ。
何だい?」
淡いブルウのガウンを羽織りながら答えてやると、困惑しているらしい声が続いた。
「女王補佐官がおいでになりました。
お見舞いをお持ちになって。
すぐに帰るとおっしゃっておいでなのですが、本当にこのままお帰ししても?」
どきんとひとつ、大きく胸が鳴った。
息を飲んでオリヴィエは、低く聞く。
「一人かい?」
「はい、お一人でおいでです。」
その答えに、オリヴィエはばさりと上掛けを跳ね除けて、寝台から起き上がる。
「会うよ。
ここへ通して。」
壁にかかった時計の針は、8時を少し回った時刻を指していた。
普段のロザリアなら、こんな時刻に誰かを訪問するなどありえない。
彼女にとって、オリヴィエはどうやら特別であるらしい。
俯いてくすりと小さく笑った。
オリヴィエにとってロザリアは、いつでも特別であった。
「1年待って、やっと…だね。」
忍びやかなノックの音が3つ。
「ロザリアですわ。」
待ち焦がれた声に、扉を開けてやる。
「よく来てくれたね、ロザリア。」
両腕にバスケットを抱えたロザリアが、大きく目を見開いている。
「オリヴィエ、起きていらして大丈夫ですの?」
本当にすぐに帰るつもりだったのだろう。
薄い青のドレスに、ストールを羽織っただけの軽装である。
いつもは高く結い上げている髪も、今は自然に下ろしている。
「久しぶりだね。
あんたのそういう姿を見るの。」
まるで時間が戻ったようだ。
女王候補であった頃、初めて出会ったあの頃に。
「お目にかかれないと思っておりましたから。
だからですわ。
お見舞いをお届けしたら、すぐに戻るつもりでしたもの。」
早口でそう言って、ふいと横を向く。
どうやら機嫌を損ねてしまったらしい。
補佐官らしくない、すきだらけの格好を、からかわれたとでも思ったか。
つい笑いそうになる口元を引き締めて、オリヴィエは表情を改める。
「会えないとわかってて、それでも来たって?」
感情を抑えた低い声に、ロザリアはびくりと肩を震わせた。
「なぜだい?」
短い問いで、追い詰めてゆく。
沈んだ青い瞳は、予想外の展開に困惑する蒼い瞳を捉えて、逃げることを許さない。
「し…心配だったからですわ。」
嘘をつけないロザリアの、素直な思いやりを嬉しいと思う。
けれどもう、それだけでは喜べない。
その先の、もっと激しい感情を欲しいと思う。
「夕方、お目にかかれなくて。
そんなに…、ひどくお悪いのかと。」
だから彼女がそう続けた時、オリヴィエの抑えた感情が爆発した。
「女王の名代のお見舞いなんて、欲しくなかっただけさ。
欲しいのは……。」
ガウンの腕が、ロザリアの腰をさらって抱き寄せた。
憐れなバスケットが床に落ちて、どさりと大きな音をたてたが、かまうものではない。
下ろした長い髪に顔を埋めて、掠れた声で告げる。
「好きだよ、ロザリア。
もうずっと長いこと、あんただけが欲しかった。」
抑えを外した激情が、抱きしめた腕の力を強くする。
苦しげに息をつきながら、それでも抗わずじっとそのままでいるロザリアに気づいて、オリヴィエは力を緩めた。
注意深く、蒼い瞳を覗き込む。
はにかむような表情をそこに見つけて、オリヴィエの胸はどくんと音をたてた。
「ロザリア?」
言葉にして欲しい。
促すように名を呼ぶと、長い睫毛が伏せられて、ほとんど聞き取れないほどの声が。
「好きですわ、わたくしも。
ずっと以前から、オリヴィエ、あなたが。」
俯けた白い顔を上向かせて、間近に見つめる。
うろうろとさ迷う蒼い瞳をなだめるように、まぶたに唇を落とした。
震える長い睫毛に、白い滑らかな頬に、オリヴィエは幾度もキスをする。
「ロザリア……。」
くぐもる声で名を呼ぶと、花びらのような唇に、そっと唇を重ねた。
怖がらせないように、優しく触れるだけ。
けれどすぐに、そんな自制は吹き飛んでしまう。
抑えに抑えた激情が、はけ口を求めて渦を巻いている。
二度目に重ねられた唇は、まるで余裕のかけらすらない。
長く続いた飢えを一時に満たそうとしているかのように、激しく荒々しく、息を継ぐ間さえ許さなかった。
ようやく離された唇の間。
悪戯げにオリヴィエが笑って言った。
「これでおしまい……とは、言ってあげられないよ?」
もう待たない。
あからさまにそれを示されて、ロザリアは真っ赤になって首を振った。
「な…!
外泊は、わたくし、困りますわ。
う…うちの者が心配いたしますでしょう?」
この期に及んで、まだそんなことを言う。
夜、たった一人で、男の元へやってきて、それが通ると思っているのだから。
世間知らずの箱入り娘、それもとびきり上等の箱に入ったお姫様。
普段の自分であったなら、きっと許してやっただろう。
多分、きっと。
「今夜は帰してあげるよ。」
彼女の屋敷まで、送って行ったに違いない。
その絵を想像して、内心でオリヴィエは笑った。
けれど今は、無理だと思う。
夕刻の光景、思い出したくもない視線が、オリヴィエの目の裏にちらついている。
「だめだよ、ロザリア。」
きっぱりとそう言うと、ロザリアを横抱きに抱き上げた。
「わたしが心配なんだろう?」
艶めいた甘い声。
寝室の扉が閉められて、そしてその後。
部屋の灯りが落とされた。