花の咲く頃(12)

いくつもの春が行き、夏が過ぎ、秋が来て、そして冬が終わった。
ロザリアが聖地を去ってから、もうどのくらいになることだろう。
過ぎ去った過去の思い出は遠く、ロザリアの胸の中でひっそりと生きているだけになっていた。
いまや、彼女がかつて女王の冠を戴いた身であることを知る者はない。
それは彼女自身が望んだことでもあり、それゆえに主星から遠い辺境の惑星に隠れ住んだのだったけれど、全くすべての過去を捨て去ることなどできようはずもない。
ときおり一人眠れぬ時を過ごす夜には、大切にしまった胸の奥の記憶を取り出して、懐かしくいとおしく思い出す。
不思議なことにその記憶は、時間が経ってもけして古びることはない。
塵一つ積らぬ鮮やかな色彩で、次々と彼女の前に姿をあらわしては消える。
薄い茶の染みが浮かんだ彼女の細い手も、その記憶の中では透き通るように白く美しい。
その手をつかんで抱き寄せた、懐かしい赤毛の青年の姿。
彼女はその記憶の映像を、宝物のように抱きしめる。

ロザリアは静かに微笑む。
めっきり深くなった口元と目尻のしわが、彼女が初老の女性となったことを告げている。
けれどそのしわも、彼女に老い衰えた見苦しさを与えることはできないでいた。
昔ほどの張りこそ失ってはいたものの、端正な美貌はいまだ十分残っていたし、何よりも彼女の特徴とも言うべききつい青の瞳は、相変わらず気位の高さをたたえてきらめいている。
その瞳を和ませて、ロザリアは満足げに窓の外に目をやる。
遅い春のうららかな陽光が、カーテン越しにゆらゆらと揺れる。
何もかもが、生き生きと鮮やかな色合いで生まれ変わるこの季節。
山合にある、彼女の山荘の周りでは、とくにはっきりとそれが感じられるのだ。
後幾度、この様子を見ることができるだろう。
ロザリアはそう思いながら、残された時をこのまま終わることを改めて決意する。
わたくしは間違ってはいなかった。
懐かしい記憶が今なお鮮やかに美しいのは、あの時にきっちりと身を処したからだと彼女は思う。
愛しくて同時に苦しいあの日々に、未練をたくさん残しながらも彼女は決心した。
そのことが今の彼女の平穏を保障してくれているのだ。
これで良かったのだ。
彼の胸にも彼女と同じ、懐かしく愛しい日々のみが残っていることだろう。
そこでは彼女はいつも若く美しい。
それこそが、彼女の望み。
それでこそ、今彼女は平穏な心でいられるのだから。
だが、それでもどこかでまだ期待している。
ある日突然に。
あの赤毛の青年が、驚くような早足で近づいてきて、有無を言わせず彼女を抱きしめることを。
実際にそうなったら、いたたまれない気分になるはずであるのに。
それでもどこかで。
彼の訪れが、いつもそうであったように。
突然、なんの前触れもなく・・。

初めて自分の心にそんな期待を見つけた時、ロザリアは激しく首を振って、その浅ましい思いを振り払おうとした。
とんでもないことだ。
自分は何を考えているのかと。
けれどどんなに振り払っても、その思いは何度も何度も繰り返し頭をもたげる。
何度目かのその思いに、彼女はついに観念した。
思うくらいは・・。
そう。
現実には決してありえないことなのだから。
思うくらいは楽しめば良い。
以来この想像は、ときおり出てきては彼女を楽しませてくれる。
万難を排した恋人が、とても劇的に彼女の前に現れて。
そして言うのだ。
「ずいぶん待たせてしまったな、お嬢ちゃん。」
よく響く、甘い声で。

明け方さあっと通りすぎた雨が上がり、その日は朝からよく晴れていた。
窓を開けると何処からか甘い香り。
誘われるようにロザリアは外に出た。
雨上がりの緑がいつもにも増してみずみずしく生き生きとしていて、このまま1日を家の中で過ごすのが勿体無いようだ。
小さな手編みの籠を持って、山へ入ることにする。
奥へ行けば、そろそろさまざまな野生のベリーがあるはずだった。
散歩がてらにそれを摘んで帰るのも良いかもしれない。
山荘からさらに奥へと続く山道を、ロザリアはゆっくりとだが軽快に上り始めた。
針緑樹は深い緑。
広葉樹は浅い緑。
それぞれの若葉が鮮やかに、生まれ出でたばかりの新しい命を誇っている。
谷を隔てた向こうの山は朝もやに霞み、谷間を流れる川音は雪解けの季節も終って穏かに響く。
早朝の冷たい空気に、先ほど山荘で嗅いだ甘い香りが混じる。
なにかしら?
ロザリアは顔を上げてあたりを見回す。
ほろほろと頭上からこぼれかかる花弁。
紫の藤の花。
気がつけばあちらこちらにそれはあった。
人の手によらない野生のそれは、人工のものよりもずっと肉厚で房が短い。
雑木に絡みつくようにして蔦をのばし、まるでその雑木が花を咲かせたかのように、木の葉の間に花房をつけて甘い香りを発散していた。
「まあ・・・。」
しばし見とれる。
強く甘い香りは野趣が勝っていて、人工のものよりいささか品がない。
けれどそれはどんな非難も平然とはね返す図々しいまでの生命力と、遠くからでもその存在を他人に知らしめるような自我の強さに満ち満ちていて、いっそすっきりと潔い。

「山藤は性が悪いんですよ。」
カタルヘナ家の所領であるこの山の番人が、苦々しげに彼女に言ったことがある。
「自分一人では生きてゆけないものですからね、他所の手ごろな木の幹や枝に蔦をのばしましてね、そうして最後にはその蔦で元の木を絞め殺してしまうんですわ。
このお山には杉やヒノキがたくさん植えられておりますからね、そんな木に巻きつかれでもしたら大変なことです。」
彼が言うには、そういう売り物の木に巻きついた山藤は、根元からばっさりとナタで切り落としてしまうのだそうだ。
宿主を絞め殺してしまう、性の悪い木だから。

雑木の葉の間にあでやかに咲く紫の花。
それがあるために、雑木はその身の丈よりも美しい。
いずれ絞め殺される運命であったとしても、もしかしたらそれを喜んでいるやも知れないではないか。
何が益で何が害か。
それを決めるのは他人の胸ではない。
当事者にしか、わからないこともあるのだから。
性が悪い?
それはこちらが勝手に決めたこと。
山藤は素直で正直なだけなのではないか。
己が生きてゆくのに必要なものを、ただ求めて離さない。
そんな風に生きられたら・・・。
羨ましい花だ。

籠の中から花バサミを取り出す。
室内に飾るにはきつすぎる香りであるかもしれないが。
そう思いながらも、ロザリアは低く垂れた藤の蔦に鋏をのばす。
だがそれは、思ったより強靭でなかなか切れなかった。
もう一度力をいれて刃を立てる。
うまくいかなかった。

さくり・・と快い音を立てて、藤の蔦は切り離される。
その一枝が、ロザリアの手元にぱさりと落ちてきた。
頭上に伸ばされた引き締まった腕。
鈍く光る硬質の刃。
ま・・さか・・。
藤の甘い香り。
しびれたように動けない。
背中で、刃を鞘に収める音がする。

「探したぜ。お嬢ちゃん。」
懐かしい声だった。