花の咲く頃(13)
「夢のような日々でしたわ。」
ベッドに横たわったまま、ロザリアは満足げにそう、わたくしに告げました。
「もう・・・。
何も思い残すことはありません。」
残酷な人です。
貴方は最後まで。
わたくしは返す言葉もないままに、ただ黙って彼女の弱りきった表情を見つめていました。
オスカーがすべてを投げうって、彼女の元へかけつけてから既に三年の月日が流れていました。
わたくしが唆したとおり、オスカーは自分の時間を進め、彼女の望みどおりの姿になって彼女の元へ戻ったのです。
その罪で彼は力の衰えを完全に待たずに、聖地を追放されました。
思うにそれは、彼をよく知るジュリアス様や女王の恩情だったのかもしれません。
とにかく彼はそうして恋人の元に戻り、そして最後の時を一緒に過ごすことが出来たのでした。
そうです。
最後の時。
彼はそれからすぐに、この世を去りました。
誰よりも大切だと言った、最愛の恋人を一人残して。
そして今。
ロザリアも、最後の時を迎えようとしていました。
この冬に体調を崩したまま、春になってもそれが治らないのです。
彼女の容態が良くない。
カタルヘナ家の家司から内密に知らせを受けたわたくしは、急いで彼女の山荘にかけつけました。
今となっては、彼女の心安い知己と言えばわたくしだけです。
なんとしても傍にいてさし上げたかった。
何年ぶりかで目にしたロザリアは、本当にひどく衰弱していました。
それは彼女の身体が老齢で弱っているからでもあったのでしょうが、わたくしの見るところ、彼女が自分の命にもはや執着していないことの方が、むしろ大きな原因のようでした。
この世に執着する唯一の理由を失って、いつでもその命を手放しても良いと思っているように、わたくしには見えたのでした。
「あなたには、最後までお世話になりますわ。
本当に申し訳ないと思っているのですよ、リュミエール。」
息をするのも億劫な様子でした。
苦しげに上下する薄い胸が、わたくしにはとても切ない。
ついに恋人として抱きしめることを許されなかった、彼女の細い身体でした。
もう少し早く。
もう少しだけ早くに、わたくしが彼女を愛していたら。
そうすれば、今ここで彼女にかける言葉も変わっていたのでしょうに。
「謝っていただくために、わたくしはここにいるのではありませんよ。
お願いですから、そんな言葉はお使いにならないでください。」
言いながら、目頭に熱いものがこみ上げてきます。
ただ一人で残されて、それでも夢のような日々だったと言い切る彼女がかなしかったのです。
「本当に、貴方は幸せだったのですか?」
聞かずにはいられませんでした。
「また、もう一度、やり直せるとしても、オスカーをお選びになりますか?」
「わかりませんわ。
でも、幸せだったのだと思いたいですわ。
確かに幸せだったと思える日々もあったのですもの。」
ロザリアの目は閉じられていました。
それでも乾いた唇から発せられる言葉は、驚くほどに明瞭で澄んだ響きのものでした。
「わたくしが彼を愛して、そして愛されて。
それで幸せなのではないかしら?
さかしらな理屈は必要ないのだわ。」
「貴方がお苦しみになったことを、半分もわからない相手であっても?」
言ってはならないことだったのかもしれません。
ですが、言わずにはいられませんでした。
「仕方のないことでしょう・・?
それは。」
うっすらと開いた青い目が、優しく笑いかけてきます。
「貴方がお悪いのですよ。
わたくしを愛してくだされば、良かったのです。」
思わず口にしていました。
ロザリアはほんの少しだけ目を見開いて、わたくしを見つめていましたが、やがて口元をほころばせて息だけの笑いを漏らしました。
「上手く・・・いかないものですわね。」
ああ、本当にそのとおりでした。
オスカーと彼女が恋に落ちる前に、わたくしが彼女を愛していれば。
また、ロザリアがオスカーよりもわたくしを愛してくれていれば。
今更どうしようもないことです。
運命とはこういうことを言うのでしょう。
「一つ、お願いがありますの。」
途切れ途切れの息が、本当に苦しそうでした。
「藤の花の根元に・・・、わたくしを葬っていただきたいのです。」
「山藤の?」
「ええ。
何処でも良いのですわ。
この山に咲く、あの山藤の根元であれば。」
苦しげな息とは対照的に、彼女の瞳は熱っぽく強い光を放っていました。
「ねえ、リュミエール。
あなたはいつもオスカーばかりをお責めになったけれど、そうではないのですわ。
わたくしと彼の恋が苦しいものであったとすれば、その責任の半分はわたくしにもあったのです。
わたくしはとても・・・。
意地っ張りでしたもの・・ね。」
ロザリアが何を言いたいのか。
わたくしにはわかっておりました。
確かに彼女の言うとおりなのでしょう。
彼女の気位の高さ、聡明さが、彼女にわがままであることを許さなかったのです。
それは女王としてたぐい稀な資質でありそして美点でもあったでしょうが、一人の人間としてはそうとばかりは言えないものでした。
そのために、苦しまなくても良いことに苦しみ、暖かい日常に、自ら背を向けていたというのも事実なのです。
ですが。
ですがわたくしなら、そういう彼女の気性も含めて包み込み愛してさし上げたでしょう。
彼女がわたくしを愛してくれさえしていれば。
オスカーに向けた同じ愛情をもって。
「思いのままに振舞うことは、生きてある限り、わたくしには無理なことのようですわ。
だからせめてわたくしの亡骸は、あの勝手気ままで美しい、藤の花の根元に。
生まれ変わったわたくしは、もしかしたらあんな風に生きられるかもしれませんものね。」
途切れがちの声はだんだんに細くなっていました。
もう、間もなく彼女の魂は駆けてゆくのでしょう。
しばらくは、わたくしの手の届かぬであろう所へと。
「わかりました。
おっしゃるとおりにいたしましょう。」
上掛けから差し出された細い手を握り、わたくしは微笑んで約束いたしました。
「ありがとう、リュミエール。」
最後に薄い微笑。
それが、最後でした。
ふうっと灯が消えるように、静かに穏かに彼女は逝ったのです。
さやさやと木の葉の触れ合う音が、やけに大きくわたくしの耳に響いておりました。
その後。
わたくしは彼女との約束を果たしました。
山深い、清らかな水辺に咲く、一番美しく匂いやかな山藤の根元に、彼女の亡骸を葬ったのです。
緑濃い山肌に紫の霞みが垂れこめたように、山藤はあちらこちらにありました。
その中で。
今年も、ロザリアの花は見事に咲いています。
濃い紫の花房がほろほろと、わたくしの頭上にこぼれかかっておりました。
強く甘いその香りは、長くその下にいれば酔うほどで。
「ロザリア。
あなたのお望みのとおりにいたしましたよ。
これで、よろしかったのですね?」
川の音が高くなっておりました。
この山にも、じきに夏が来るのです。
それまでのほんのつかの間、あでやかな紫の花は咲き匂い。
お待ちになっていてくださいね、今度こそ。
わたくしか、オスカーか。
しっかりとお考えになってから、お選びなさい。
約束ですよ。
ロザリア。
藤の花房が風に揺られていました。
それはやわらかく妖しく、わたくしを誘うようで。
紫の強い香り。
幻に酔わされたまま、いつかわたくしもここに眠ることでしょう。
彼女の傍で。
次の春か。
その次の春か。
いずれにせよ、そう遠いことではありますまい。
きっと・・・。