金と銀
「だって気持ち悪いでしょう?」
誰だ、この女は。
「ちゃんとしたホテルに泊まれるの、まだ先になるわ。
とうぶんこんな風に外で寝るのよ。
できることはしなくっちゃ。」
目の前には小さなせせらぎがあって、彼女の隣りには籠が置かれている。
たった今すすぎ終わった洗物を、白い腕がひょいとそこへ投げ込んだ。
「はい、できた。」
俺に向けられた小さな背中には、時折白い翼が見え隠れする。
人間ではないのか、こいつは。
誰だ。
「どうしたの?
さっきから黙りこんで。
ねぇ、アリオス。」
ふいに振り返る。
息が止まった。
ある筈がない。
彼女であるはずは。
だが思わず呼びかけた。
「エリス・・・。」
青みがかった緑の瞳が、不思議そうに俺を見た。
「やだ、どうしたの?
アリオス。」
アリオス?
俺のことか?
いや違う、俺はアリオスなどではない。
「ホントにどうしちゃったの?
私は・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・よ?」
目の前の映像が突然歪んだ。
揺れて、滲んで、そして霧の中へ融けてゆく。
「待て。
行くなアンジェリーク!!!」
「・・・ヴィアスさま。
レヴィアスさま。」
銀色の瞳が目の前にあった。
夢をみていたか。
余韻を残した身体は、まだ熱を持っていた。
埒もない夢だ。
あるはずのない映像は、夢の常である。
意識をしっかりとひき戻す為、目を閉じて軽く首を振った。
野営用の寝具はいつも粗末なもので、薄い毛布一枚が、申し訳程度に彼の身体と地面を隔てている。
夜の闇はまだ深い。
すっかり熱を失った大地から、底冷えのする冷気が這い上がってくるようだ。
小さくひとつ身震いをして、青年は身体を起した。
「どうした?」
乱れた黒髪をかきあげる。
「なにか起こったか。
カイン。」
右の瞳は金色で、冷たい不思議な光を放つ。
それは青年の出自の証。
レヴィアス・ラグナ・アルヴィース。
誰よりも誇り高く激しい、この皇子の名であった。
「うなされておいでのようでした。」
カインと呼ばれた銀の髪の青年は、ほっとしたように微笑した。
主君レヴィアスとさして変わらぬ年齢ながら、物静かな性質のためか、かなり大人びて見える彼である。
「悪い夢でもご覧になりましたか?」
「我が?」
くっと小さく喉を鳴らして、レヴィアスが笑った。
「悪い夢なら、今更みるまでもない。」
きらきらときらめく金色の瞳には、激しい矜持と憎しみの色があった。
だが左の瞳。
緑の色の瞳には、別の色。
底のない悲しみがそこにはあって、カインは主君の左の瞳が苦手だった。
彼自身、それと似た色を胸の奥に住まわせる身であったから、彼よりなお深い主君の悲しみの色を正視できない。
「案ずるな、カイン。
我は負けぬ。」
すいと視線を外したのは、レヴィアスの方だった。
古毛布をおしやり、立ちあがる。
そして木立の途切れた場所、見晴らしの良い高みにまで、歩を進めた。
眼下には、皇宮があった。
下からも、この地にある軍は見えるはずである。
それを承知で、レヴィアスはこの丘に陣を張った。
どんな強弓も、ここまではとどかない。
物理的な飛び道具では、射程距離外である。
だが仮にとどいたとしても、その弓はやはり、この丘にあるどんな小さな生き物も傷つけることはできない。
それは物理的でない攻撃、魔道による攻撃であっても同様である。
ここには、レヴィアスによる結界が張られていた。
それは絶対の安全を意味している。
彼の力に勝る魔道士など、この宇宙のどこにも存在しないのだから。
臨戦状態にある皇宮は、夜だというのに人の気配でざわめいている。
馬のいななき。
武装した騎士たちの、重い鋼の足音がする。
「せいぜい、慌てるが良い。」
皇宮の敷地は彼の真下に広がって、手を伸ばせば掴み取れそうに近い。
おもちゃのように散らばる建物一つ一つに、レヴィアスの切れるような鋭い視線が注がれる。
これも、あれも、そしてあの庭も・・・。
レヴィアスには、すべて馴染みの場所であった。
忌まわしく呪わしい記憶。
そして懐かしくせつない、恋しい記憶と。
「能無しのブタが、あれにある。」
叔父を、父を、母を、レヴィアスはそう呼んだ。
ひっそりと主君の膝元に控えたカインは、黙したまま頭を垂れた。
その彼に、色の異なる視線が戻される。
「我はあれに戻る。
そして正統なる地位を、取り戻す。
力を貸せ、カイン。」
「御意。」
「明日あれにあるは、ブタだ。
ブタに容赦は要らぬ。
すべて殺せ」。
冷たく冴えた命令に、血族を殺すためらいはない。
<そうしたのはあなた方ですよ。>
ブタと呼ばれた高貴な人々に、胸の内でカインは叫ぶ。
「良いな、カイン。」
頭上から降る声に、カインはさらに深くうなだれた。
「御意のままに。
・・・・・・、皇帝陛下。」
篝火が揺れる。
闇に浮かぶ緋色の灯り。
仮の陣所のあちこちに、見張りのために置いたものだ。
下の皇宮では、さぞ脅えているだろう。
明日、この丘から10万の兵が下りてくる。
皇宮のブタどもは、地獄の絵図を存分に眺めることになるのだから。
レヴィアスの口元に、笑いが滲む。
「灯を増やせ。
カイン。」
静かに命じた。
「煌煌と。
空の焦げるほどに・・だ。」
明日、彼は皇帝となる。
だがまだ夜は深い。
夜明けには、間があるようだった。