金と銀(17)

「アンジェリーク・・・。」
遠慮がちの静かな声が、名を呼んだ。
「少し歩かぬか?」
振りかえりもしない彼女の背で、声はさらに続いた。
「気を静めるが良い。
私が付き合おう。
・・・・・・・。
おまえが嫌でなければ。」
<ああ、この方はいつでもこうだ。
優しい。
とても優しい。>
背を向けたまま、アンジェリークは目を閉じた。
かき消すようになくなったレヴィアスの妖気と邪念、それにあの黒髪の美貌。
大きな月だけが残された空を見上げて、ぼんやりしていた。
その彼女に、そっと肩を抱くような、温かい声をかけてくる。
「嫌だなんて・・・。
ありがとうございます。
ジュリアスさま。」
そう応えて、アンジェリークは泣きたくなった。
ここまでずっと泣かずに来たのに。
「では行こう。」
金色の髪の長身が、ゆっくりと彼女の隣りを通り過ぎ、そして振りかえった。
「行くぞ。」
衝撃を受けた彼女を、慰めようとしているはずだ。
それなのに金色の髪をしたこの美貌の青年は、けっして彼女に触れる事はない。

<そうだった。
ジュリアス様はこういうお方。
だから私、あの時もあきらめた。
優しい。
とても優しい方だけれど、その先を望んではいけないって教えてくださったのもこの方だった。>
生まれたばかりの宇宙を任されたあの日、彼女を見送ったジュリアスは、いつもより少しだけ険しい表情で言ったものだ。
「新しい宇宙の発展を、ここより祈り続けている。
おまえと、おまえの育てる宇宙が、いつも健やかであれと。
光の守護聖ジュリアスの名にかけて。」
どうしようもない恋だとあきらめた、それが彼の答え。
辛くない筈はない。
その証拠に、ジュリアスの表情は険しかった。
だが彼は恋よりも、女王であり守護聖である事を重んじた。
その重責の前に、恋など一時の気の迷いだと。
だから彼女も応えた。
「ありがとうございます。
どうかジュリアス様も、お元気で。」

「どうした?」
再び促されて、アンジェリークは微笑を返した。
「はい、ジュリアス様。」
蒼い瞳にやわらかい優しさが浮かぶ。
彼女が自分の傍に来るのを、待つつもりのようだった。
小走りに近づくと、満足げな微笑が見下ろした。
「では行くか。」
明るい月の照らす小道を、2人並んで歩いた。
触れるか触れぬかわからぬほどの微妙な距離を保ちつつ、並んで。

柵に囲まれた牧場につきあたった。
畜舎に入れられているのだろう、羊は1頭も見当たらない。
広々とした草地が広がり、そこに夜風がさわさわと渡っていた。
「草のにおいがする。」
大きく息を吸いこんだアンジェリークを、ジュリアスが見下ろした。
「そうだな。」
そして草地に座りこむ。
「良い場所だ。
休むとしよう。」
隣りに座るようにと視線で促され、アンジェリークは素直に従った。
その彼女を愛しげにみつめて、そしてすぐに視線を逸らす。
「おまえはきっと・・・・・、私を意気地のない男だと思っているのだろう?」
いきなり、思いもかけない言葉。
「え?」
思わず問い返してしまう。
「私はおまえを愛していた。
だが私は守護聖で、おまえは女王だ。
その事実の前に、私の心がどうあれ、問題にもならぬと思っていた。」
月を見上げた白い顔。
金色の長い髪が、月の照り返しできらきらと輝いている。
通った鼻筋、形の良い唇、そしてすっきりと長い首。
見慣れているはずなのに、こうしてあらためて間近で見ると、やはりどきりとするジュリアスの美貌だった。
<私もあなたが好きでした。
誰も私の代わりになれないって、あなたが教えてくれたから・・・・。
だから女王になったんです。
それがあなたの望みだと、そうおっしゃったから。>
アンジェリークの言葉は、音にはならない。
今更言ってもし方のないことだと思ったから。
彼女はジュリアスに恋をした。
それは確かに事実であったのに、もうはるか遠い昔のことであるような気がしていた。
今彼女の心には、別の男が棲んでいる。
ジュリアスの言葉は続いた。
「だがそうではなかった。
先刻、はっきりとわかったのだ。
あの男を見るおまえの顔を見て。
そしてあの男の顔。
あの顔、ああいう表情には、覚えがあるのでな、私にも。」
寂しげな笑いが、薄いくちびるの端に浮かぶ。
「あの時、私は自分の気持ちが一時の気の迷いだと思った。
時が経てば忘れてしまえる。
その程度のもので、守護聖の重責とは比ぶべくもない感情だと。
あの男と、同じ顔をしていたのに・・な。
なんと愚かであったことか。
忘れられるなどと。
私は・・・・あの男を妬ましいと思ったのだ。」
蒼い視線が、アンジェリークに戻された。
寂しげな微笑。
その奥に、痛ましいほどの切ない揺らぎがある。
それはかつて彼女がよく知っていた、ジュリアスの視線。
この視線に捕らわれて、幾度眠れぬ夜を過ごした事だろう。
「おまえは、私と同じ過ちをおかしてくれるな。
自分の心によく聞く事だ。
1番大切なものは何かとな。
悔いながら死んだように生きるには、我々の寿命は長過ぎる。
残酷なほど・・長過ぎる。」

厳しい光を放つ瞳だった。
いつも怜悧で厳格で、嘘偽りを見透かしてしまう。
怖いほどの蒼い瞳が、今は寂しげに見える。
大切なものを失ったと、ジュリアスは言った。
あの時、彼女を手放した自分の判断は間違っていたと。
誇り高い光の守護聖が、そう言っているのだ。
アンジェリークに判断を誤らせないようにするために、そのために彼は自身の誇りをなげうって、自分の未練を告白した。
「ジュリアスさま・・・。
ありがとうございます。
本当に。」
切なかった。
もうどうにもならない。
今更、あの頃の気持ちには戻れない。
だが言わずにはいられなかった。
「もっと早くに、そのお言葉をうかがいたかったです。
もう少しだけ・・、早くに・・・。」
金色の髪を揺らしてジュリアスが首を振る。
「そうはいかなかった・・・・・・。
うまくいかぬものだな。」
時を戻す魔法は、誰にも使えない。
過ぎた時は帰らない。
だからこそ、現在が大切なのだ。

「帰るぞ。
冷えてきた。」
立ちあがったジュリアスは、もういつもどおりの顔をしていた。
「あまり遅くなると、皆が心配する。
行くぞ。」
相変わらず、手を差し伸べる事もない。
背を向けて、先に歩き出す。
金色の長い髪が豊かにおおう広い背中。
その背を見上げて、小さく口にした。
「ホントに、うまくいかないものですね。」
そしてアンジェリークは、感傷的な気分に引きずられそうになる自分を励ますように、きゅっと目を閉じた。
勢いよくぴょんと跳ね起きて、ジュリアスの後を追う。
大きな月が白々と照らす小道を、少し離れて歩いた。