手枕の淵(2)

高額紙幣が数枚。

乱れたベッドの枕元に、無造作に投げ出されている。

「楽しませてもらったよ。

ありがとう。」

一分の隙もなく身仕舞を済ませたオリヴィエが、振り向きもせずに声をかけた。

見たくはなかった。

自分の昂ぶりをおさめる為だけに、まるでモノのように扱った女の顔など。

手酷い扱いだったろう。

自分のことだけを考えたその行為は。

だからこそ、これを聖地には持ち込めない。

持ちこんで、彼の最も大切な女性にはぶつけられるものか。

けれどこうして、ただ気分を静める為だけにした行為であっても、いつも後には自己嫌悪が残る。

何故、自分の身体はこうも貪欲なのか?

何故、あれほどの女性の愛を得ておきながら、それだけでは満たされぬのか?

つくづく浅ましいと思う。

「あんたもきっとあるんだね。

いろいろと・・さ。

いいよ、またきなよ。

アタシでよかったらね。」

振り向きもしない薄情な男には、勿体無いほどの優しい言葉。

オリヴィエの胸の奥の自己嫌悪が深くなる。

一夜限りの欲求を満たしてくれた相手であっても、彼女なしでは聖地に帰れなかったことだけは確かなのだ。

であれば、相応の礼を持って接するべきだろう。

「ん・・。そうだね。

良い・・・女だね、あんた。」

ようやく振り向いた。

ぐったりとベッドに身を沈めたまま、女は視線だけでオリヴィエを見送っている。

紫色の瞳が、憐憫とも同情ともつかぬ表情を浮かべて微笑っていた。

「はやく・・帰りなよ。

あんた、帰るところがあんだろ?」

帰るところ。

オリヴィエは、胸の中でつぶやいてみる。

帰らなければならない。

あそこには大切な人がいる。

この身の穢れの何一つ、見せたくない、見ては欲しくないと願う大切な女性。

彼女の元へ戻るために、ここで一晩過ごしたのだ。

そうだ。

それだけだ。

「もっと楽に生きなよ。

肩肘張ってたら疲れるだろう?」

他人にはそう言って来たオリヴィエが、なんとガチガチの見栄を張っていることか。

だが、できない。

あの、ロザリアを自分の欲望のままに蹂躙し、苛み、愉しむ事など彼にはできない。

「また・・来るよ。」

短い応えに、自嘲気味の笑いが混じっていた。

 

 

 

「どうしたんだい?」

いつもどおりの夜。

仕事を終えたオリヴィエが、ほんの少しの後ろめたさを持って恋人と過ごす夜。

特に変わったことなど無いはずなのに・・・。

今夜のロザリアは少しおかしい。

オリヴィエはそう感じた。

「ロザリア?」

彼の胸に顔を埋めるようにして横たわる恋人の名を呼ぶ。

「本当にどうしたんだい?

なにか・・あったの?」

聖地に戻って初めて二人で過ごす夜には、たいてい彼女の機嫌が悪い。

とりたてて何かを問うわけでもないのだが、それでも彼女がオリヴィエの不行状を無言で責めているのはわかる。

そんな時、彼はそれに気づかぬフリをする。

言い訳をするなど、もってのほかだ。

例え彼女が何かを知っていたとしても、その現場を見られぬ限りシラを切り通す。

それが思いやりというものだ。

はっきりとしないままでいる事のほうが良い。

そういうことだってあるという事を、オリヴィエはよく知っているつもりだった。

だが、今夜の彼女の様子はそれとも違うようだ。

責めていると言うよりは、むしろ脅えているように見えた。

脅える?

何に彼女は脅えているのだろう。

オリヴィエの視線を避けて、ロザリアはずっと顔を上げてはくれない。

「ロザリア、こっちを見て。」

伏せられた顔をクイと指で持ち上げる。

すぐに逸らされた視線。

けれどオリヴィエは、はっきりと見た。

罪のおののき。

人の倫に厳しいロザリアが、何の罪を犯したと言うのか。

考えられることは一つ。

オリヴィエのブルウの瞳が赤く濁った。

ちりちりと胸を焦がすような苛立ちが湧きあがる。

「誰なんだい?」

低いかすれた声。

「・・・・・。」

「ロザリア!

どうして黙ってるんだい?」

肩を激しく揺さぶった。

それでもロザリアは、顔を背けたままで何も応えない。

パキン・・と小さな音がして、オリヴィエの胸の中で何かが弾けた。

乱暴に、ロザリアをベッドに押し倒す。

噛みつくようなキスをした。

息をつがせることも許さぬ間断無い口付け。

ロザリアの胸が苦しげに上下する。

ようやく唇を離したオリヴィエが、再び問う。

「誰なんだい?」

瞳にちらちらと、嫉妬の暗いほむらが揺れる。

「言わないつもり?

そいつを庇うつもりなのかい!?」

自分の言葉で、オリヴィエはさらに昂ぶってゆく。

ロザリアはその男に惹かれたのか!?

自分がここを留守にしたほんのわずかな間に、その誰かが彼女の心を盗んだのか?

抑えがきかなかった。

見栄も体裁も無い。

嫉妬が彼を支配する。

引き裂くようにして、ロザリアの身体を開いた。

「誰なんだい!?」

ただその言葉だけを繰り返しながら。

 

 

 

「どうなさいました?」

やわらかい微笑みに似つかわしくない、意地悪な口調。

ロザリアの目の前で、リュミエールの形の良い唇が歪んでいた。

ロザリアは、ふいと顔を逸らした。

「申し上げたでしょう?

気分の昂ぶりなどというものは、何も男にだけあるものではないと。

あなたが再び求めてくださるだろうと、わたくしは知っておりましたからね。」

やさしい指が、ロザリアの身体をくまなくまさぐってゆく。

軽い羽根のようなかそけさで触れられて、ロザリアの唇から小さな喘ぎが漏れる。

「あなたとこうなることを、わたくしがどんなに願っていたか。

あなたはご存知無いでしょうね。

もうずっと、そう思っていたのですよ。

愛しい、わたくしのロザリア。」

途切れることなく続く優しい口説。

それに恍惚としてゆく意識と身体。

白い喉を大きくのけぞらせて、ロザリアは微笑んでいた。

 

 

悪くはないわ。

たとえ人の倫に外れることであっても、おざなりの夜よりずっと良い。

ロザリアは、昨夜のオリヴィエを思い出す。

最後まで口をつぐんだままの彼女に、オリヴィエは日頃の気取りをうち捨てて、生のままの衝動で彼女に挑みかかってきた。

それが、今までにない濃い夜を彼女に与えてくれた。

荒ぶる気分を他所で晴らす恋人に、置いてきぼりを食らわされたような寂しさをおぼえていた。

昨夜は、図らずもその仕返しができたような気がする。

リュミエールのおかげだわ・・。

彼女の首筋に唇を這わせる男の首に、ゆったりと腕を回す。

彼のおかげで、昨夜の愉しみがあった。

そしてそれだけでなく。

リュミエールとの夜が、彼女に気づかせてくれた。

恋の力関係が変わる、その瞬間を。

あの夜を境に、ロザリアは恋人に抱かれる立場からそれを抱く立場に変わった。

ただ恋人の訪れをじりじりと待ち、その心と身体の不確かさを嘆いた彼女はあの瞬間に消えたのだ。

「わたくしを愛してくださいますね?」

耳元でかすれるリュミエールの声。

汗にじっとりと濡れた額に、水色の長い髪がはりついている。

「わたくしを愛してください。

お願いですから。」

何度も繰り返される言葉。

にっこりと、ロザリアは微笑む。

「ええ。

もちろんだわ、リュミエール。」

リュミエールはその言葉どおり、彼女を愛しているようだ。

とても優しく丁寧に、彼女を恍惚へと導いてくれる。

根気よく何度でも。

だから彼と身体を合わせることは厭ではない。

むしろ愉しんでいるといっても良い。

だから。

だから応えてあげよう。

「わたくしもあなたを愛しているわ。」

そう。

今だけは。

今、身体を重ねるこの瞬間だけは。

そう応えたことで、彼女はオリヴィエとの夜に罪の意識を持ち込むことになる。

それが翳りのある微笑を彼女にもたらすだろう。

そしてそれを、オリヴィエがどう受けとめるのか。

ロザリアの口元に妖しい微笑が浮かんだ。

 

「ロザリア、本当ですね?

もう、わたくしから離れないでいてくださいますね?」

荒い息、苦悩するような表情のリュミエールが彼女をのぞきこむ。

「わたくしは・・もう。

あなたから離れられそうもないのです。」

切ない哀願が耳元に繰り返される。

「ロザリア・・・。」

 

 

朦朧とする意識が弾ける。

その瞬間が、もう間近まで来ている。

ざわざわとした感覚を、ロザリアは愉しんで迎え入れた。