Felicia~約束の瞬間~

カタカタカタカタ……。

深夜の工房に、乾いた音が走る。

Scanstate /I migsys.inf /I miguser.inf /I sysfiles.inf Z:

ディスプレイの明かりに照らされた横顔。
鋭角的なラインの頬に、長い指があてられる。
それは無意識のしぐさ、コマンドラインを確認する時の彼の癖であった。

ざっと文字列に目を走らせると、彼はエンターキーを軽く叩いた。
ファイルのコピーが始まる。終わるまで三~四分はかかるだろう。
銀色の髪をうるさげにかきあげて、彼、ゼフェルは煙草に火をつけた。

シュボ……。

しんと静まり返った工房に響く音。

「朝までに移せっか。
こいつ、けっこうでかいデータ持ってたよな」

ふぅ…と煙を吐き出しながら、ゼフェルは大きく伸びをした。

昼間、システムマシンのバージョンアップがあった。
開発工場のクライアントマシンのうち二〇〇台を、新しいものに取り替える。
ゼフェルの愛機もその予定の一台に入っていて、

「大将、面倒でしょうがよろしくお願いします」

システムエンジニアは、遠慮がちにそう言った。
大将、Z社の社長ゼフェルが、愛機の調整を他人に任せるはずはない。

「あぁ、わかった」

くわえ煙草でディスプレイに視線をあてたまま、いつもどおり無愛想にゼフェルは答えた。
その後すぐに、新型車の調整試験に入って、気がついたらこんな深夜である。
メタルフレームの壁掛け時計を見上げれば、針は午前三時を少しまわったあたりを指していた。

 ウィン……。

無機的な機械音とともに吐き出された文字列が、コピーの終了を告げる。

Loadstate \\Elysion\migstore

短いコマンドを打ち込んで、そこでゼフェルはふと指を止めた。

Elysion

その文字列をじっと見つめる。

「エリューシオン……かよ」

口にして、苦い笑いをゼフェルは浮かべた。
それは今Z社が開発中の新型車の名前であった。
つい先ごろ、彼が手がけた特注車フェリシア、その量産型モデルの。

 

 

Z社のゼフェルが、特注オーダーを受けたらしい。
好事家の間で瞬く間に広がった噂。
これまでどんなに頼まれても、けして応じなかった特注に、あのZ社のゼフェルが。
次は是非自分に、どんなに金がかかってもいいからと、あちこちから問い合わせが入るようになり、首星の本社が泣きついてくるのに時間は要らなかった。

「社長、特注をまた受けろとは申しません。
お受けくださらないくらいのことは、我々も承知しております。
しかしこのままでは、Z社の回線はパンクしっぱなしです。
日に何度修理をしても、追いつきやしません。
せめてあのフェリシアの量産型を。
お願いですから」

重役がそうして泣きついて来る頃には、ゼフェルのいる開発工場オフィスにもうるさいくらい問い合わせが入ってきていて、「回線がパンクする」という重役の言葉もあながち大げさなものではないとゼフェルにもわかった。

「わかった」

だから仕方なくそう答えた。
不承不承、まるで本意じゃない返事だった。

けれどその返事は、重役だけでなく、開発工場の技師たちをも大いに喜ばせることになる。
優雅な流線型を描く、白い氷の花のように美しいあのフェリシアが、輸送船に積み込まれたあの日を、彼らはよく覚えていた。
彼らの敬愛する大将が精魂傾けて造ったあれ。
たとえそれが量産型であったとしても、あの大将のことだ。間違いなく陣頭指揮をとるだろう。
今や伝説の英雄の名を持ったZ社のゼフェル、その指揮で新型モデルの開発をする。
滅多にある機会ではない。

その日から技師たちの士気は俄然上がって、昼夜を問わない工程シフトが自発的に始まった。

 

 

「『フェリシア スペシャルエディション』で、いかがでしょう?
キャッチは…、そうですね。
『至上のラグジュアリー』なんてどうでしょう。」

その一言で、本社から派遣されたコピーライターはゼフェルに黙殺される。
途方にくれるライターを置いて、さっさと工房に戻って行ったのだ。

〈そりゃそーだろーよ〉

フェリシアの輸送に立ち会った栗毛の青年は、にやりと笑う。

〈何が、スペシャルエディションだ。
フェリシアは最初からスペシャルなんだよ。
んなこともわかんねぇのか〉

 無言の怒りのオーラをまとう大将の背を、青年は足を速めて追いかける。

「大将、どーするんですか?
名前。
名なしじゃ、困るでしょ」

「んなこた、どーだって良い」

 イラついた声は予想どおりだった。

「じゃあ『スペシャルエディション』になっちまいますよ?
本社のやつらのやりそーなことです」

 そう続けると、ゼフェルの足が止った。

「……シオン」

 ぼそりと、何か聞こえた。

「え?」

「『エリューシオン』、そう伝えとけ」

 その一言で、新型モデルの名は決まる。

「わかりました!
すぐに言ってきます!」

 ウサギのようにかけ出す青年をちらっと見やると、ゼフェルは今度こそ工房へ戻って行った。

 

それからである。
大将自ら命名した新型モデルの名は、開発工場にある大将信奉者にとって特別なものとなった。
たとえば、これもその例のひとつ。
システムサーバーの名前にまで、使われている。

「こんなとこまで……」

空色の目をしたシステムエンジニアの顔を浮かべて、ゼフェルはため息をつく。

「ばか……じゃねーか」

エリューシオン。
その名の持つ重みを、本当に知る者はいない。
けれどその名が特別であることを、ここにいる者は感じている。
だからゼフェルは苦笑する。

「ばか……だったな」

もう一度そう呟いて、エンターキーを叩く。

ウィン……。

小さな唸りをあげて、ファイルの再コピーが始まった。