幸福への回帰(5)
夜半過ぎて、雨はますます酷くなった。
大粒の雨が、庭の木々の葉を派手に鳴らす。
冷めた紅茶を口にして、ロザリアは小さく身震いした。
気温が下がってきたようだ。
窓を閉めようと立ち上がって、息が止まる。
雨に煙った門の前に、彼女が間違えるはずのない姿があった。
騎馬の長身。
赤毛の。
どのくらいの間、そこにそうしていたのだろう。
見事な赤毛はしとどに濡れて、むき出しになった秀麗な容貌がひときわ目を惹いた。
仰ぎ見るようにして、こちらに向けられた蒼氷色の視線が、ロザリアを捕える。
「オスカー…。」
バルコニーの縁へ、駆け出していた。
「待っていらして!」
身を乗り出すようにしてそう叫ぶと、呼び鈴の紐をいらいらと引いて執事を起こす。
「ごめんなさい。
オスカー様がおいでなの。
すぐにお通ししてちょうだい。
こんな時間に悪いのだけれど、タオルとあたたかいカプチーノをお願いできるかしら。」
白い髪の青年は、いつもと変わらぬ様子で頭を下げると、すぐに彼女の望みをかなえてくれた。
門の開錠音がして、階下の居間へ通された気配がする。
ロザリアは急いで鏡をのぞき込み、化粧の乱れを直すと、居間へ駆け下りる。
夜半、男性を招き入れる外聞の悪さなど、吹き飛んでいた。
「悪いな、ロザリア。
こんな時間に。」
白いバスローブに着替えたオスカーが、火を入れた暖炉の前で振り返った。
「お着替えを整えて参ります。」
オスカーの濡れた衣類を抱えた執事は、丁寧な礼を残して部屋を下がった。
「さすがに陛下のお眼鏡にかなうだけのことはある。
行き届いているな。」
僅かの間に、テーブルの上にはブランデーが用意されていた。
「まあ、カプチーノをと申しましたのに。」
不平を鳴らしたロザリアに、オスカーは声を上げて笑う。
「こいつの方がありがたい。
だから行き届いていると言った。」
琥珀色の液体を、くいっと一息に飲み干した。
40度はある強い酒である。
宴でもかなり飲んでいたはずだが、まるで乱れた様子もないオスカーに、相変わらずだとロザリアは懐かしく、嬉しい。
何の用かと、ロザリアは聞かなかった。
まともな用であれば、こんな夜更けに訪問するオスカーではない。
「会いたくてな…。」
蒼氷色の瞳が、暖炉の火を映して揺れる。
どきん…と、ロザリアの心臓が大きな音をたてた。
「次は俺だ…。
多分、近いうちにそうなる。」
次?
夢の守護聖が去ったその次か?
力の尽きた守護聖は、引継ぎを済ませた後、速やかにこの地を去らねばならない。
聖殿のバルコニーで交わした言葉を思い出したロザリアは、身体中の血の気が引くのを感じた。
「オスカー、あなた…。
どうして、あなたが。」
色を失ったロザリアの唇に、オスカーの指がそっと触れる。
「力がつきかけているようだ。
どうしようもない。」
足が震える。
大地がぱっくりと割れて、底知れぬ闇に飲み込まれてゆくようだ。
聖地にある人々とは皆、いつかどうしようもない別れがくると、頭では理解していたつもりだった。
思い入れをしないように心に鍵をかけ、穏やかな日常を守ってきたというのに。
なのにどうして、彼女の心は悲鳴を上げるのか。
嫌だと、心が叫ぶ。
明日も明後日もその先も、傍にいたい。
失くしたくなかった。
青ざめて震えるロザリアの上で、息だけの笑いが漏れた。
「未練だと、思わんでもない。
だが言わないで後悔するより、言って後悔する方が良い。」
抱き寄せられる。
オスカーの大きな手に掴まれた、両の腕が熱い。
低く抑えた声が、告げる。
「君を愛している。
昔も、今も、この先もずっとだ。」
身体中すべてが、歓喜の声をあげていた。
封じていた思いが、渦を巻いてロザリアの身体を支配する。
「嫌か?」
この世の誰であろうと怯むことはない蒼氷色の瞳が、頼りなく揺れていた。
だめだと、ロザリアは白旗を上げる。
もはや逆らえない。
義務も責任も、遠い昔の約束を反故にする後ろめたさも、彼女を留め置く枷にはならなかった。
「わたくしも…、オスカー。
あなたを愛しています。
心から。」
口に出してしまえば、後は渦に飲み込まれるだけであった。
ほっと小さく息をついたオスカーが、切れ長の目元を和ませる。
抱きしめた腕の力が、強くなる。
オスカーの右腕が、ロザリアの細いウエストを浚う。
のけぞったロザリアの目の前に、既に発火点に達した蒼氷色の瞳があった。
唇が重ねられる。
最初から手加減のない、暴風雨のような勢いで。
それは長く待たされた時間分の熱をもって、ロザリアの身体を溶かしきる。
微かに苦く甘い、ブランデーの香りがした。