夜曲(1)

 わずかな揺れの後、音もなく地上車は停まった。

「目的地です」

 オートドライブモードのナビが、乾いた声でそう告げる。
 長い手袋をした指で、コートの前をしっかり合わせると、ドアを開けた。
 途端、どっと流れ込む潮の香り。
 優しい潮騒の声。

「ずいぶん遅くなりましたけれど……、わたくし、参りましたわ」

 白い波。
 はるかに霞む水平線。
 かつて恋人が話してくれたとおりの風景を前に、ロザリアは微笑んで口にする。

「約束。守りましたわよ?」

 ふわりと、長い髪を風がさらう。
 そっと、優しく触れるように。

<お待ちしておりましたよ。>

 懐かしい、愛しい男の声が、聞こえたような気がした。

 

「お別れです。愛しいロザリア」

 あれはいつのことだったろう。
 遠い遠い昔、赤すぎる夕陽の下で、銀青色の髪をした青年がそう言った。
 青年の肩越しに、既に開かれた黒い門扉が見えた。
 滅多に開かぬ聖地の、それは唯一の出入り口。
 かつて青年もロザリアも、そこをくぐって聖地へ召され、そして今、彼は再びそこをくぐる。
 聖地での彼の役目はついに果て、今やただの人に戻る他なくなった。

「いや…ですわ」

 青ざめた唇を震わせて、ロザリアは首を振る。

「置いていっては嫌。わたくしを一人にしないで」

 じわじわと上り来る冷気が、心臓に到達するまでどのくらいかかるのだろう。
 いっそこのまま、ここで凍りついてしまえれば良いとロザリアは思った。
 常春の聖地にありえぬ冷気は、女王であるロザリアの恐怖が生み出したもので、女王たるもの、この世の均衡を崩すいかなる動揺をも、常に自戒しなければならないというのに。
 すっかり常の冷静さを忘れたロザリアは、胸の前で組んだ両手を震わせて、すがりつくような表情で青年を見上げる。

「置いていかないで。お願い、リュミエール」

 震える途切れがちの哀願に、名を呼ばれた青年は切ない微笑を浮かべた。
 ロザリアの頬を両手で包み込み、上向ける。
 間近に迫る水色の瞳。

「わたくしが今、どんなに無理をしているか。あなたには、おわかりにならないでしょう。
本当に、今、わたくしがどんなにあなたをお連れしたいか。
それをようやくこらえているのだと、あなたには……」

 頬に触れた長い指が、小刻みに震えている。
 長い銀糸の睫毛に縁取られた水色の瞳は、苦しげに揺らめきロザリアを捕らえていた。

「愛しいロザリア。わたくしのロザリア」

 名を呼ばれると同時に、強い力で抱き寄せられていた。
 なじんだ恋人の香りに包まれて、ロザリアは目を閉じる。

「約束いたしましょう、ロザリア。故郷の惑星で、わたくしはあなたをお待ちしておりますよ。
それがどんなに遠い先のことであっても、必ず」

 春雨のような優しい声。
 振り仰いだロザリアの唇に、恋人の冷たい唇が重なった。
 いつ果てるともない長い口づけの後、ほんのわずかに離した唇の間に。

「お待ちしますよ、ロザリア。ですからあなたもお約束を。
必ずわたくしの元へおいでくださると。お約束ください、どうか……」

 囁くようにそう言った。

「約束いたしますわ、リュミエール。きっと、きっと参りますわ。
どんなに時間がかかろうと、必ずあなたの元へ」

 それが恋人との別れ。
 サクリアの尽きた水の守護聖は、静かに聖地を去った。
 女王の玉座にあり続け、時を過ごし、あれからどれくらいの年月が流れたことか。
 サクリアの陰りを自覚した時、笑いながらロザリアは泣いた。
 やっと……。やっと来た。
 これで解放される。
 聖地の女王などという、望みもしない大任から。
 自分を偽り、ごまかし続ける不自由さから。
 けれどもう遅い。遅すぎた。
 恐ろしいほどに速く過ぎる人の世の時間なら、恋人の命はとうに尽き、もはや土の下に眠ることだろう。
 それでも行こうと思った。
 たとえそこにあるのが、白く風化した墓石だけだとしても、待ち続けると言ってくれた恋人に、会いに行かないではいられない。

「参りますわ、リュミエール」

 約束だったから。

 

 入り江の岬に、白い石造りの館はあった。
 かつて恋人が懐かしげに話してくれたそこ、彼の生家である館は、女王府の管理が行き届いているようで、まるで傷んだ様子もなく、清潔で美しかった。
 重い真鍮の鍵を開け、黒塗りの門をロザリアはくぐる。
 さわさわとそよぐ潮風に、前庭の木々の葉が揺れていた。
 明るい玄関ロビーを抜けると、南側の壁には天上まで届く、高い大きな窓がずらりと並んでいる。
 薄物のカーテンがふわりと風をはらんで、新鮮な空気をそこから呼び込んだ。
 落ち着いた木目と、柔らかいパステルブルウで整えられた調度品。
 居心地のよさそうなリヴィングに、かつて聖地にあった頃の、恋人の執務室を思い出す。

「お茶にいたしましょうか」

 きっと彼がいれば、そう言っただろう。
 口元に微かな笑いを浮かべて、ロザリアは頷いた。

「そうね、リュミエール。そうしましょう」

 丁寧に磨きこまれたティーポット。
 リュミエールがかつて教えてくれたとおりの場所に、それはあった。
 白地に小さなバラのつぼみを散らした薄い磁器は、まるで毎日使われてでもいるように、染み一つない。
 揃いのキャニスターも同様で、蓋を開けると新鮮なドライハーブの芳香がふわりと上がる。

「誰か来たばかりなのかしら?」

 女王府の管理がどんなに丁寧なものだったとしても、毎日ここへ来てお茶の葉を入れ替えるところまではするまいと思う。
 ほんの少しの違和感を、ロザリアは感じた。
 キッチンを出て、館内を見回ってみる。けれどどこにも、誰かが住んでいるらしい気配はない。
 再びキッチンに戻り、ハーブの葉を見つめた。
 それはかつて恋人が、優しい微笑とともによく淹れてくれたカモマイル。
 りんごのような甘い湯気の向こうで。

「気持ちが穏やかになりますよ?」

 静かな柔らかい声で。

「リュミエール、あなたですの?」

 思わず声に出していた。
 そして次の瞬間、俯いて唇を噛む。
 あるはずがない。
 あれからどれほどの時間が過ぎていることか。
 ただの人の身が、永らえられる時ではない。
 わかっていたはずのこと、覚悟してきたはずのことなのに、この時ロザリアは初めてそれを芯から理解した。
 もういない。
 あの銀色にけぶるような青く長い髪をした恋人が、

「わたくしのロザリア」

 優しい声で彼女の名を呼ぶことは、二度とないのだと。

「リュミエール……」

 キャニスターを抱きしめて、ロザリアは声もなく泣いた。