夜曲(3)

 波の音が聞こえる。
 繰り返し繰り返し、寄せては返し、また寄せる。
 ソファに身を沈めたロザリアは、目を閉じてその繰り返す規則的な音を聞いた。
 暖炉に揺らめくオレンジ色の炎。
 テーブルの上には、透き通ったクリスタルのグラスが一つ。
 とろりと赤いぶどう酒を、ロザリアは口にした。
 とろとろと溶けてゆくような感覚が心地よくて、そのまま目を閉じる。
 慣れぬ土地をあちこち歩き回った疲労が、睡魔の触手を招きさえして、気づけばいつかうとうととロザリアは眠りに落ちていた。
 どのくらい、そうして眠り込んでいたものか。
 遠く聞こえる潮騒の声。
 パチパチと暖炉の薪のはぜる音。
 ふわりと、なにか暖かいものが身体を覆う。
 軽く、ふわふわして、心地よい。
 ソファの脇袖にかけた右腕に身体を預けたまま、ロザリアはその暖かみに手を伸ばす。
 薄い毛布か。
 え…?
 そこでしっかり覚醒する。
 目を開けて、息をつめる。
 誰かいるのか。
 起き上がり、辺りを見回すことも恐ろしい。
 身を硬くして息を潜めていると。
 くす……。
 控えめな笑い声がした。

「お目覚めですか?」

 聞こえるはずのない声が、そう聞いた。

 

 これは夢?
 自分はまだ夢の中にいるのか?
 身をソファに預けたまま、混乱する頭を静めようと目を閉じた。
 会いたいと、あまりに思う気持ちが、幻聴を聞かせたのだ。
 目を開ければ、きっと誰もいやしない。
 言い聞かせながら、それでも心が震えた。
 幻でもかまわない。
 たとえそれが人でなく、既にこの世のものではない何かであったとしても、それが恋人リュミエールであれば。
 一言だけ、一目だけ、ただそれだけでもかまわない。

「リュミエール」

 名を呼ぶと同時に、目を開けた。
 キャビネットのガラスに映る人影。
 銀青色の長い髪、しなやかで優美な姿をした。
 幻であるのなら、どうかいつまでも消えないでと、ロザリアは願った。

「お顔も見せてはくださらないのですか?愛しいロザリア」

 幻の声は、静かで穏やかで、すねたように問う語尾も、記憶の中にあるそのままで。
 ふわりと空気が動く。
 思わず振り向いたロザリアを、優しい腕が抱き取った。
 懐かしい恋人の香り。

「ど……うして?」

 温かい腕には、確かに生きた人の体温がある。
 幻じゃない。
 幻などでは。

「お待ちすると、わたくしは申し上げたでしょう?
お疑いでいらしたのですか?
愛しいロザリア、つれないことですね」

 本気でそうは思っていない証拠に、その声は微かに笑っていた。

「お顔をあげて。さぁ」

 頬に長い指がかかる。
 見上げた視界に、何よりも懐かしい恋人の水色の瞳があった。
 銀の睫毛がけぶるように下りて、優しい水色の瞳を隠す。

「やっと……。ようやく貴女をこの腕に……」

 囁く声はため息のよう。
 甘く切なく、いとおしい。
 なぜ彼がここにいるのか。
 人の永らえうる時間ではなかったろうに、なぜ。
 その疑問を、ロザリアは打ち捨てた。
 今彼女を抱く温かい腕、それだけが真実で、それ以外のことなど知りたくもない。
 それで良いと。

「会いたかった。
とても、とても、会いたかったわ。あなたに」

 胸の思いをそのまま口にする。
 迸るような勢いに、リュミエールの顔から微笑が消えた。

「嬉しいことを……。ですがわたくしの思いには、かないません。
わたくしがどれほど貴女にお会いしたいと、願い続けてきたか。
その思いには」

 腕の力が強くなる。
 次の瞬間、その腕に抱き上げられていた。

「貴女に教えて差し上げますよ」

 余裕のない緊張した声に、こわばった微笑。

「どんなに貴女をお待ちしていたか。どんなに貴女を愛しているか。
それを……」

 差し迫った感情に突き上げられるような口調でそう言うと、ロザリアの長い髪に顔を埋めた。
 耳元で囁く。

「参りましょう、ロザリア。夜は、短い……」

 青い絨毯の階段を、リュミエールは上る。
 夢でも良い。
 これが夢であったとしても、かまわない。
 リュミエールの胸に顔を埋めたまま、ロザリアは祈った。
 どうかこのまま。
 今夜だけは、どうかこのままでと。