蒼の蜃気楼(2)
「ようこそおいでくださいました。」
明け方、城門をくぐった一行を迎えたのは、初老の見るからに身分の高そうな男であった。
守護聖の身分はあくまでも伏せての任務であったが、要所要所の要人にだけは、オリヴィエの身分を前もって知らせてある。
聖地に比べるべくもない不自由な環境ではあっても、せめて最低限の快適さは必要であると補佐官が図った心遣いで、それが尋常ではない暑さに慣れぬオリヴィエを、ここまでなんとかたどり着かせてくれた。
「お疲れでございましょう。
まずはお休みください。
そして今宵には、ご機嫌よく宴においでくださいますように。
国王陛下の名代として、心よりお願い申し上げます。」
男の丁寧な口上に、オリヴィエは軽く頷いて見せる。
「ありがとう。
そうさせてもらうよ。
見てのとおり、くたくたでね。」
砂塵にまみれた衣を見下ろして苦笑するオリヴィエに、男は心得顔に大きく頷いた。
「さようでございましょうとも。
お湯の仕度を整えてございます。
まずはそちらへ…。」
パンと手を打つと、薄衣のヴェールで顔を隠した侍女たちがオリヴィエを取り囲む。
「こちらへ…。」
「ちょっと待って…。
まだ荷もほどいてないんだよ。」
さすがに今すぐに、連れて行かれるとは思いもしなかった。
「大丈夫ですよ、オリヴィエ様。
他人の手に触れて困るものなんて、入れてやしませんって。
それより、ほら。
さっぱりしてきましょう。
私はそうしますよ?」
すっかりご機嫌の補佐官は、既に頭に巻いた麻布を取り払っている。
長い行程の間、大事に守り通した自慢の銀髪を、惜しげもなく女たちの目にさらし、
「着替えはあるのかい?」
さすがに聖地に名の知れた色男、問いかける声も女性仕様の甘い声。
切り替えの速いことだ。
確かに、荷の中に他人の目に触れて困るものは、ないはずだった。
女王からの密命は、何があっても他人の目に触れぬよう、オリヴィエのイアリングに仕込んである。
「わかった、わかった。
大人しく言うことをきくからさ、そう引っ張らないでおくれ。」
いずれ劣らぬ美女たちに取り囲まれて、浚われるように王宮へ曳かれてゆく。
聖地にある彼の同僚たち、ことに赤毛のあいつがこの様子を見れば、どんなに羨ましがることだろう。
「悪いね、これも役得さ。」
片方の唇の端だけを上げて小さく笑うと、どこからか甘い香りが鼻をくすぐった。
「ん…。」
香りの源を探して視線を上げたオリヴィエに、傍にぴたりと寄りそう侍女の指が、小さな花を指し示す。
「棗…か。」
オリーブ色の小さなつぼみ。
その中にいくつか、小さな黄色の花が混じっていた。
朝の湿った空気を爽やかに彩る芳香は、長旅に疲れたオリヴィエの心を癒してくれる。
「お気に召したのなら、お湯に浮かべましょう。」
薄いヴェールの向こうから、黒い大きな瞳がにっこりと笑いかけて、
「さぁ、ごゆっくりなさいませ。」
優雅なアーチを描く円柱で囲まれた石造りの建物に、オリヴィエを優しく誘って行った。
「オリヴィエ様、そろそろお仕度を。」
扉の向こうから、控えめな声がかけられる。
どうやら眠っていたらしい。
それもかなり深く。
明け方、もうもうと白い湯気の上がる湯殿に通されて、汗と埃を流して、その後。
寝所に戻ると、ぷつりと意識が途切れた。
自覚していた以上に、身体は疲れていたらしい。
清潔で柔らかい寝具にありつけて、ただひたすらこんこんと眠り続けたのだろう。
「ああ、わかったよ。
今、行く。」
寝台に片肘をついて、半身を起こした。
頭の芯がぐにゃりとするようで、不自由な遠出の日々に、そろそろ本当に疲れているのだと思う。
けれどそれも、後少し。
現実の富を追うことに明け暮れて、品性も知性も夢見ることも忘れた人々の住む国がある。
この国から、ほんの目と鼻の先に。
現世の欲を熱狂的に求める人々の熱は、暗い赤色のオーラとなって、この惑星全体を覆い始めていた。
一国が滅びるだけならば、それは人の世の習いであって、聖地の女王が介入することではない。
だがそれが、一個の惑星そのものの存亡に関わるとなれば、話は別である。
「行ってくれますね?
民の欲する力を奪い、要らぬと拒む力を与え、かの地に安定と調和をもたらすように。」
女王の命が下り、かくしてオリヴィエは即座に聖地を発った。
砂漠の惑星で、強行軍である。
行けども行けども、眼前に広がるは、焼けつくように熱い砂の粒ばかり。
ほう…とため息をついて、ゆっくり立ち上がる。
洗いたての金の髪が、さらりと肩からこぼれ落ちた。
「仕方ないさ。
これもお務めのうち…。」
守護聖になってから覚えた口癖だった。
言っても仕方ない不平は、言うだけ見苦しい。
平然と受け容れて、淡々と終わらせるだけ。
己が務めに、さしたる情熱を持てるわけではない。
けれどそうしなければならぬ身であるのなら、しないで逃げるわけにもゆくまい。
この後の夜会も、彼の数多いその勤めの1つ。
生成りのガウンを羽織った。
とろりとしたシルクの重みが、彼をオリヴィエに戻してくれる。
できるだけ華やかな衣装を選ぼうと思った。
今宵の夜会には、できるだけ華やかできらびやかなものを。
それが夢の守護聖オリヴィエには、必要であったから。