蒼の蜃気楼(3)

 

小国のことで、王宮とは言え、小規模のこじんまりとした城であった。
それでも広間へ続く庭園の小道には、両脇に棗の木立があって、薄い黄色の小さな花が夜気に甘い香気を放ち、まるで恋しい女の元へ通うような気分を演出してくれる。
この小道を抜ければ、夜会の広間、そのはずであった。
広間まで先導すると言う侍女をやんわりと謝絶して、一人で来た。
教えられたとおりの道を。
それなのに、どうしたことだろう。
小道はいつまでも続くように見えて、にぎやかな灯りや人の気配はまるでない。
さすがにおかしいと思ったオリヴィエが、踵を返そうとしたその時に。

弦の音がした。

「リュート……?
こんな辺境で、珍しいね。」

深く優しい弦の音は、オリヴィエも好んで演奏する楽器のものであった。
けれどこの惑星にあるなどとは、思いもしなかった。
これまで訪れたどの街にも、それらしきものはなかったはずだ。

いったい、どうして。

不思議に惹かれたオリヴィエの心が、足を音の源へと急がせた瞬間に、天上から絹の声。
しっとりと潤い、とろりとして滑らかな、高く細い声が、夜の大気に溶けてゆく。

己が身の不幸を嘆き、それでも明日をあきらめはしない。
その先にはきっと何か、新しい何かがあるだろうから。

物哀しい旋律に乗せて、絹の声はそう歌う。
何かを思うより先に、オリヴィエは駈け出していた。
着飾った盛装の乱れるのも構わず、細い小道を天上から降る声に導かれて。
そして息を飲む。

石造りのバルコニー、銀の月に照らされた少女。
透けるような白い肌、夜空の星が舞い降りたかのように煌めく、印象的な蒼い瞳は濃い長い睫毛に縁どられて。
薄絹の衣服、幾重にも重ねられた細い金の腕輪。
空に溶ける声は、薄い紅色の唇からこぼれてゆく。
すっきりと伸びた白い腕にリュートを抱え、長く細い指が弦をつま弾いた。

「姫様、まだそのようなことを。」

いらいらとした無粋な声が、夢のような時間をぶつりと断ち切った。

「もう夜会は始まっておりますのに。
大事なお客様だと、陛下からお言葉がありましたでしょう。」

初老の婦人、どうやら乳母らしき女が、少女の傍できりりと眉を吊り上げている。

「わたくし、出たくないわ、ばあや。
風邪気味だと、お父様に申し上げて……。」

気鬱らしく、俯いた少女の言葉が終わるのを待たず、乳母はさらに言い募る。

「何を、わがままなことを。
じき、お輿入れなさろうという方が。
ご自分のお立場を、お考えなさいませ。
この国の王女として、最後のお務めでございますよ。
さあさあ。」

とうとう焦れたのか、少女の腕に手をかけてリュートを取り上げてしまう。

「ロザリア様!」

これで最後だとばかりに投げられた強い声に、少女は立ち上がる。

「参りますわ。
確かに……、これがわたくしの務めですものね。」

暗闇から見上げるオリヴィエに気づくこともなく、少女は部屋の奥へ隠れてしまった。

「王女……、この国の王女。」

見飽きぬ絵のような美貌に、それならばもう一度会えるはず。
くるりと踵を返して、オリヴィエは小道を駈けた。
急いで戻るのだ。
そうすれば彼女に会える。
出がけの憂鬱など、空の彼方へ吹っ飛んでいた。
棗の花の香気が染める道を、ひたすらに駈けた。

 

 

 

「案内を差し上げるようにと、申しつけておきましたのに。
至らぬことで、大変ご無礼を申し上げました。」

広間に着いたオリヴィエを迎えた国王は、オリヴィエを見つけるや否や、すぐさま傍に駈け寄ってそう言った。

深々と頭を下げて、

「どうぞお許しください。」

夢の守護聖の許しを請う。

聖地の守護聖、それはただの人である身にとって、神のような存在である。
一国の王といえど、それは変わらない。
神の怒りを恐れるように、国王はオリヴィエの不興を恐れた。
けして慣れることのできぬその態度が、オリヴィエの形の良い眉を寄せさせる。

「道に迷ったんだよ。
私の我儘でね。
だから誰も悪くはないし、あなたが謝る必要もないさ。」

元はただの人である。
偶然に、そう本当に偶然に、オリヴィエにサクリアの発動があっただけ。
けして嬉しくもないその偶然のおかげで、こうして神のように崇められ、恐れられている。
人に許されぬ長い長い時間を生きて、聖地に縛られただ他人の幸せだけを考えよと言われるこの身を、どうして誇らしいなどと思えるものか。

「でもございましょうが……。」

それでも頭を上げようとしない国王に、オリヴィエは笑って見せた。

「ほらほら、私が良いと言ってるんだから、それで良しにしてくれないかい?」

「そうですよ、国王陛下。
せっかくの砂漠の名花、オリヴィエ様にも楽しんでいただきましょう。
いずれ劣らぬ美しい方々ばかり。
長旅の疲れも、吹き飛ぶようですよ。」

オリヴィエの微笑に危険を感じたらしい。
補佐官がすいと近づいて、彼らしい陽気な取り成しをする。

「さあ、オリヴィエ様。
こちらへ。
砂漠の名花。
豪華絢爛。
お好みのままに今宵はお過ごしください。」

軽口を叩きながら、オリヴィエを国王の前から連れ去ってしまう。
これだから、彼を手放せない。
苦笑しながらオリヴィエは、

「助かったよ。」

礼を言った。

「何年お傍にお仕えしたとお思いですか?
オリヴィエ様のお好みは、よくよく承知しておりますからね。
が、が……です。
ちょっと、女の方はいけません。
確かに美しいことは美しいんですがね、こう、なんというか、何か足りない。」

オリヴィエの補佐官らしく、美についてはなかなかにうるさい青年である。

「あんたも言うようになったね。
これだけの美女、食指が動かないって?」

彼の言いたいことは十分承知の上、オリヴィエはあえてからかった。

「オリヴィエ様、ひどいですね。
私だって、誰彼かまわずというわけじゃない。
あの方なら、話は別ですがね。」

聖地にいる赤毛の青年、オリヴィエにはごく親しい仲間にあたる彼を指しているのだろう。
美女の取り合いで、何度か剣突くらわしたこともあるらしい補佐官の反応に、オリヴィエはついに噴き出してしまう。

「ああ、そうだったね。
確かにそうだよ。
でもね、いけないと言うのは、まだ早いんじゃないかな。」

意味ありげに微笑して、

「まぁ見ておいで。」

広間の奥へ、オリヴィエはつかつかと進んで行った。

「こちらへ持ってきておくれ。」

小ぶりのリュートを、オリヴィエは侍女に運ばせた。
長旅の無聊を慰めるためにと、らくだの背に積んできたものである。

「さて、私は堅苦しい挨拶が苦手でね。
その代わりに…………。」

薄い紗の幕越しに、見え隠れする影。
ほっそりとしなやかなその影に向かって、彼はにっこりと微笑んだ。
弦を弾く。
ほろん……と、深く優しい音が鳴る。
よく響く、甘い、けれどどこか翳と艶のあるテノールが、歌う。

遠い昔の恋の物語。
一目で恋に落ちた二人が辿る、切ない別れ。
失った恋人を忘れられず、ただ嘆き悲しむ男の恋の歌。

ほう……と、女たちのため息が続く。
うっとりと夢見るように、彼女らの視線はリュートを抱いたオリヴィエの横顔に注がれている。
柔らかな曲線を描く、長い金の髪。
物憂げに伏せられた暗いブルウの瞳。
金糸で飾られた白い薄手の衣装はたっぷりとしたものであったが、その上からでもはっきりとわかる、無駄のないしなやかな肢体。
さながら音曲の神が舞い降りたような、理想の美青年。
夢の中で描く姿でさえ、目の前のこの青年にはかなうまい。
彼女らの見たこともない楽器をやすやすとつま弾いて、甘い声で歌う。
それがただの歌だとわかっていても、彼に恋われる女につい嫉妬してしまうほど。
最後の爪音が響いて、それが消えても、広間の人々はしばし余韻に酔っていた。
その余韻の名残のつきぬ間に、オリヴィエは紗の幕に近づいて、

「お気に召したかい?」

さらに甘い声をかける。
紗の幕がさらりと動く。

「ええ、とても……、とてもお見事でしたわ。」

絹の声。
天上の星の煌めきを映したような蒼い瞳が、間近で微笑していた。