蒼の蜃気楼(5)
明くる日。
不貞寝を決め込んだオリヴィエが、さすがに起き出そうと寝台から離れたのは、既に東の空に白々と月の昇り始めた頃だった。
「誰かいるかい?」
いなければ良いがと思いつつ、問いかける。
返事はない。
ほっと息をつく。
一人でいたかった。
思い出したくもない昨夜の醜態を、なんとか消化してしまわなくては、誰かに会う気にもなれない。
夢の守護聖の顔を、今のオリヴィエには作れなかった。
鏡に映るのは、我儘で好き放題に生きていた、ただの人であったオリヴィエの顔。
「ザマぁないね。
何やってんだか。」
まったく良いザマだ。
みっともないこと、この上もない。
けれどそれも、旅先でのほんのちょっとしたハプニングにしてしまえば済む。
別に何もなかった。
そうして何が問題になろうか。
オリヴィエはじきにここを発つ。
そうすればその後、彼女に会うことなどけしてない。
そこまで考えて、オリヴィエは首を振った。
できない。
あの天上から響くような絹の声が、オリヴィエの脳裏にはしっかりと記録されていた。
人の世の何もかもを許して包み込むような、優しく暖かいあの声を、どうして忘れられるだろう。
気になって、あの声に触れたくて、聖地を抜け出す自分が見えるようだ。
「そうだね。
無理はしないことさ。」
手早く身支度をすると、庭園へ出る。
昨日と同じ、銀の月の照らす小道を行く。
彼女に会うために。
「良かった。
またお目にかかれましたわ。」
目指す部屋の下、バルコニーを見上げるオリヴィエを、少女は微笑んで迎えてくれた。
「気になって仕方ありませんでしたの。
オリヴィエ様、わたくし変ですわね。」
飾らない素直な言葉に、胸の奥で何かが弾ける。
低い石の階段を風のように上って、彼女の白い手を取った。
「触れても良いかい?
もっと……、もっと近くで、あんたに。」
抑えつけた低い声に、彼女はこくんと頷いてくれる。
腕を伸ばした。
最初は恐れるようにそっと。
けれどすぐにそんな抑制など吹き飛んで、激情のまま胸に抱き寄せる。
もっと、もっと近くに。
天上へ戻ってしまわぬように。
「これが恋ですの?」
胸の中から、彼女はそう聞いた。
煌めく蒼い瞳をじっとオリヴィエに向けて、頬をバラ色に染めて。
「罪だと、ばあやは言いますわ。
けれどこれが罪なら、それでも良いわ。」
かわいらしい告白は、オリヴィエの胸をぎゅうぎゅうと締め付けて、最後の理性を簡単に吹き飛ばしてくれる。
「ばかだね。
今の私に、そんなことを言うものじゃないよ。」
唇を重ねた。
薄紅の小さな唇を、幾度も幾度もわがものにして、その後。
激情を抑えるために、さらにきつく彼女を抱き寄せた。
きつく眉を寄せて、絞り出すような声で言う。
「一緒に来てくれないかい?」
ただの人である彼女の時は、瞬く間に過ぎる。
たとえ一緒に連れ戻ったとしても、共に過ごせるのは僅かな時だ。
それでも許される間は、共にいたいと願う。
「参りますわ。
連れて行ってくださいませ、オリヴィエ様。」
僅かの間もおかず、即座に彼女は答える。
「わたくしの母はね、遠い西の土地から嫁いで参りましたの。
父はとても大事にしておりましたけれど、わたくしには母が幸せそうには見えませんでしたわ。
いつもどこか寂しそうで。
あのリュート、あれは母の形見ですの。」
視線を投げた先に、まろい曲線を描く木製の楽器がある。
つとオリヴィエの胸を押しやって、彼女は立てかけたリュートの弦を弾く。
「いつもこのリュートを抱えて、遠くを見ていましたわ。
傍にいる父やわたくしなど、まるでいないかのように、母は遠くばかりを。
もしかしたら、母にも大事な人があったのかもしれませんわね。」
膝に抱え上げたリュートを、愛しげに撫でる。
「歌ってくれないかい?
もう一度、あの晩のように。」
思わず口にした言葉に、彼女ははっと目を上げて、ついでいたずら気に笑った。
「やっぱりご覧になっていらしたのね?」
「白状するよ。」
あっさりと認めてみせる。
「けどね、悪かったとは言わないよ。
これっぽっちも思っちゃいない。
あんたに会えて良かった。」
オリヴィエは彼女を抱きしめた。
背中からすっぽり覆うように。
耳元で囁く。
「愛しているよ。」
棗の花の香り。
清楚で可憐な昼の顔、夜気に染まれば沈んだ官能の色を添える。
このまま彼女を抱きあげてしまおうか。
瞬間、オリヴィエの瞳に暗い灯が灯る。
本能的にびくりと震えた細い身体に、オリヴィエはぎりりと唇をかんで、平静を呼び戻した。
「大丈夫だよ。
怖がらないで……。」
艶のある長い髪を指ですいて、優しくなだめるように言い聞かせる。
「父君にお願いしよう。
明日の朝一番にね。」
今のオリヴィエにできる、精いっぱいの優しさだった。