夜曲(5)
湿った緑の匂いがする。
開け放った窓からの風は、木々の息吹をたっぷり含んでいて、季節は初夏に移ったのだと知らせてくれる。
生成りの麻のカバーをかけたソファに深々と身を沈め、ロザリアはただぼんやりと夕暮れの景色を眺めていた。
ほう……と、重いため息をひとつ。
リュミエールが姿を見せなくなって、一月が過ぎていた。
何か事情があるのだろう。
都合がつけば、またそのうちに姿を見せてくれる。
だからそっとしておこう。 何も聞いたりはしないで。
最初こそ、そんな風に思っていたロザリアも、これほど長くなると、次第次第に心配になっていた。
何かあったのだろうか?
最後に別れたあの朝に、特別変わった様子はなかったけれど。
身体の調子を崩したのだろうか。
どんなに考えてみたところで、リュミエールの正体を知らずに来たロザリアに、答えの出るはずもない。
ぐるぐると同じ事を考えることにも疲れて、背筋に力を入れて立ち上がる。
こうしていても仕方ない。
思い巡らせて、それでリュミエールに会えるのならともかく、今のロザリアに何ができるというものでもない。
今日はだめでも、また明日がある。
明日だめなら、またその次が。
聖地にあった時のことを思えば、こうして待てるだけでも幸せだった。
この瞬間に、同じ時間を、この惑星のどこかで、彼は生きている。
会えなくとも、確かにここに、リュミエールはいるのだから。
気を取り直して、大きく開いた窓に近づいた。
いつまでも未練がましく待ちそうな自分に、今夜はもう無理だと言い聞かせるために、窓の錠をしっかりとおろす。
ソファと揃いの生地で仕立てた薄い麻のカーテンを引いて、ロザリアはもう一度軽く息をついた。
昼間、市で買っておいた珈琲でも淹れよう。
一人きりの夜には、お茶の柔らかな香りより、もっと濃くしっかりとした香りが必要だった。
聖地にあった頃、よくそうしていたものだ。
一人で豆を挽き、ゆっくりと湯を通す。
女官の手を借りず、何もかもを一人で。
キッチンでそれと同じ作業をこなすと、やがて甘い香りがロザリアを包んだ。
透き通った琥珀色の液体と甘い香りが、ロザリアの孤独を優しく包む。
「大丈夫。明日がありますわ。だからわたくしは待てる。
明日になればきっと……」
一月の間繰り返した同じ言葉を、ロザリアは呪文のように呟いた。
さらに一月が過ぎた。
夏、この惑星が一年中で一番賑わう、観光シーズンである。
海辺の小さな町にも、あちこちからの観光客が押し寄せて、早朝深夜を問わずにぎわしく、騒がしい。
岬のロザリアの館からも、その様子は見て取れて、それでなくとも鬱々と沈み込む気分がさらに落ち込むようで、最近では滅多に外に出ることもない。
夕闇が辺りを覆う頃、館のテラスに続く窓を開け、そこでしばし海を眺める。
ロザリアが外気に触れる、唯一の時間であった。
「大丈夫。明日がありますわ。わたくしはまだ待てる」
呪文の効果は、日を追うことに弱くなる。
潮の香りのする風に、おろしたままの長い髪をなぶらせながら、ぼんやりと海の果てを眺めるロザリアの唇から、小さなため息がもれた。
蒼い視線を、左手に落とす。
金色の封蝋を施した真っ白な封書。
流麗な文字で、ロザリアのよく知る名前がサインしてあった。
近々、ここを訪れたいと。
ロザリアの都合を伺う、礼儀にかなった文章である。
彼らしいと、ロザリアは微笑した。
女王を退いた自分に会いたがる用向きがどんなものか、ロザリアにも薄々感じとれる。
だから厄介だと思った。
けれどそれだけではない感情が、ロザリアの中に湧き起こる。
誰でも良い。
今のこの頼りない孤独から、ひと時だけでも連れ出してほしい。
長く人の世を離れたロザリアを、包み隠さずさらけだして、何もかもを受け容れてくれる誰かなら。
白い封書の差出人は、今はまだ聖地にその身を置いているはずである。
会いたいと思う自分に気づいて、ロザリアは不快げに眉を寄せた。
寂しいから、つらいからと、他人を巻き込んで良いはずはない。
ましてその他人が、彼女に気遣い以上の気持ちを抱いているのなら特に。
丁重にお断りをしようと決めて、書き物机に足を向けた時。
「帰ってはいかがですか?
それ、帰って来いという手紙でしょ?」
透き通った、冷たい笑いを含んだ声が背後から。
聞きなれぬ声は、彼女の待つ男のものではない。
けれど予感があった。
リュミエールにつながる誰か。
そうに違いない。
ゆっくりと振り向くと、透き通るほど薄い銀の髪をした、長身の青年が立っている。
口元には薄い微笑。
かけた声に似合いの、冷たい微笑を隠そうともしないで。
色素の薄い水色の瞳をした青年は、さらに微笑を濃くして続ける。
「やつは来ませんよ。いや、正確に言うと、来られない。
貴女も、待ってくれる人がいるのなら、そちらへ戻った方が良い」
やはりと、ロザリアは思う。
自分の予感は正しかった。
この青年は、リュミエールにつながる誰か。
「元気でいますの?」
だからまず気になることを尋ねた。
リュミエールが生きてさえいてくれれば、それ以外のことは二の次である。
すると青年の切れ長の瞳は、僅かに見開かれ、次にまじまじとロザリアの顔を見つめた。
「驚かないんですね」
その反応に、ロザリアは自分の質問が普通ではなかったのだと苦笑する。
こういう場合、驚くものなのか。
けれど彼女自身の存在が、既に普通の人のものではない。
長い長い時を生きる中には、かつてただの少女であった頃ならとても信じられぬような不思議も、数々見てきたものだ。
今更、なにをこれしきのこと……。
それに事がリュミエールの安否に及ぶなら、その情報をもたらす相手が誰であるかなど、どうでも良いことだった。
たとえそれが人外の何かであったとしても、それがどうだというのだろう。
「リュミエールは無事でいますの?」
もう一度問いかけると、青年は頷いてみせた。
「生きてはいますよ。元気といえるかどうか、また別にしてもね」
ほっと、ロザリアは大きく息を吐き出した。
「そう」
それならば良い。
事情を詮索するつもりは、なかった。
無事でいる。
そうであれば、いつかきっと、必ずリュミエールは戻ってくる。
「不思議な人ですね。何も聞かないし、驚きもしない。
やはりただの女ではないと、そういうことですか」
先ほどまでの冷笑はなりを潜め、替りに好意的な好奇心を載せた水色の瞳が、ロザリアを見つめている。
「やつの言葉をね、預かって来てるんですよ。少し前まで、伝える気はさらさらなかったんですけどね」
「そう…。なんて?」
微笑してその先を促すと、しぶしぶといった風に青年は続けた。
「あなたを愛しています」
放り出すようなその言葉に、ロザリアは目を閉じた。
「わたくしも……。そう伝えてくださる?」
「わかった。」
短い言葉が、青年の不本意さを教えてくれる。
何か言おうともう一度唇を開きかけ、途中でそれを彼は飲み込んだ。
その後はくるりと背を向けて、元来たテラスに消えてゆく。
闇に融ける瞬間に、青年の透明な声が響いた。
「悪いことは言わない。貴女は帰った方が良い。
人には人らしい幸せがある。
逆らうのは、賢いことじゃありませんよ」
声を追ってテラスに出たが、既に気配はすっかり消えていた。
遠くに揺らめく町の灯の、煩いほどのざわめきだけが見える。
湿った潮風に、ロザリアは言葉を乗せる。
「賢くなくて良いのですわ。どんなに愚かでも、リュミエールの傍にいられれば」
きっと近くで聞いているだろう青年に、ロザリアは微笑んでみせる。
「これも伝えてくださるわね?」
ち……と、舌打ちの音が聞こえたような気がした。