夜曲(6)

 あれ以来、銀色の髪をした青年は、思い出したようにふいっと、ロザリアを訪ねて来るようになった。
 それはいつも突然で、気がつけばそこにいるといった風に。
 日暮れてしばらくした頃、いつのまにか現れる。
 別にとりたてて何かを話すわけでもなく、ただ黙ってそこにいるだけ。
 そして翌朝、まだ陽の上らぬうちに、いつのまにか姿を消した。
 最初こそ不思議に思ったロザリアも、そんな夜が続くうちに、彼が傍にいることに違和感を感じなくなっていた。
 それどころか、彼の訪れを待ってさえいる。
 彼は唯一の縁であった。
 ロザリアがたった一人で、この館に住む理由、誰より恋しいその人の消息を知るただ一人の人物であったから。
 リュミエールの消息について、青年がすすんで口にすることはなかったが、ロザリアが尋ねれば、「ああ、変わりはない」
などと、答えてくれることもあった。
 無事でいる。生きている。
 それだけで、また明日も待ち続けられるとロザリアは思う。
 そんな日々がしばらく続いたある夜のこと。
 夏の終わりを知らせる虫の声が、冷えた空気にひっそり響く夜のことだった。

「夏が終わりますよ。もう良いでしょう。
貴女は十分待った。もう、お帰りなさい」

 ロザリアの淹れたお茶を口にしながら、青年は静かに言った。
 切れ長の薄い水色の瞳に、悪意はまるでない。
 穏やかな痛みを映した水色の視線をぴたりとロザリアに当て、続ける。

「やつは貴女の元へ戻れない。戻りたくても、戻れない。
そういう契約だったんです。
貴女も薄々気づいているのでしょう?」

 淡々とした口調が、目を背けていたい真実を突きつける。
 知ろうとしなければ良い。
 そうすれば少しでも長く、リュミエールの傍にいられると、あえて自分から真実に近づこうとはしないロザリアだった。
 けれど、たとえどんなに知りたくなくとも、知るべき時はいつか来る。
 それもわかっていた。
 そしてそれが今。

「見苦しいと思うでしょうね。潔くない、みっともないと、わたくしもわかっているのよ。
でも知りたくない。
リュミエールがどうやって、わたくしの傍にいてくれたかを、わたくしは知りたくない」

力なく視線を落としたロザリアに、青年は労わるような声をかける。

「思いませんよ。むしろ……。羨ましいと、思います。
やつも本望でしょう」

 初めて聞く、青年の優しい口調。
 それがかえって、本当にもう逃げられないのだとロザリアに知らせる。

「会いたいですか? やつに」

 唐突に投げられた問いに、すぐには反応できないでいると、相変わらず優しい、けれどひんやりと凍えるような水色の視線を向けて、青年は続けた。

「できないことじゃない。そう。会えないから、未練が残る。
いっそ会ってしまえば、貴女も無駄だと知るでしょう。
これ以上待っても、どうしようもない。早く帰るべきだとね」

 不思議な微笑に、ぞくりとする。
 探るように青年の微笑を見つめて、数秒後。
 こくんと息をひとつ飲んで、ロザリアは唇を開いた。

「わたくしをすぐに連れて行って」

 ぶつかる蒼と水色の視線。
 数瞬の沈黙の後、青年は手を差し出した。

「では行きましょう。貴女の望みのままに」

 初めて足を踏み入れた森の中。
 昼なお暗く、この惑星の者でも滅多には入らないそこを、ロザリアは青年に手を引かれて奥へ奥へと。
 うっそうと茂る森深く、月の光さえ差し込まぬ。
 漆黒の闇は外界の何もかもを遮断して、ほんの1メートル先さえ見えぬ小道を、ロザリアはただ青年の手だけを頼りに足を動かした。
 どのくらいそうして歩いただろう。
 張り詰めた緊張が呼吸を速くし始めた頃、ふいに視界が開けた。
 雪野原?
 どうやら広場らしき場所に出たことはわかったが、視覚の調整が整わない。
 まぶしい月の光に目を細め、幾度か瞬きを繰り返す。
 やがて慣れた目が捕らえた光景に、息を飲む。
 数え切れないほどたくさんの、銀色の目があった。
 沈黙の中、ロザリアを見上げるそれらすべてが、刺すように鋭い。
 それは灰色の狼の群れ。
 ぐるりと幾重にも、二人を囲んでいた。

「下がれ」

 低い声で命じると、青年は狼の輪に足を踏み入れる。
 途端、輪が切れる。
 道ができた。
 灰色狼の群れは、うなり声一つあげるでもなく、頭をさげて彼ら二人に目の前の通過を許す。
 この青年は何者なのだろう。
 ごく自然な疑問を、ロザリアは抱いたが、それでも口にしてそれを問うことはしない。
 すぐにわかるだろうから。
 彼がここへ連れてきたということは、すべてを知らせるつもりなのだろう。
 青年が何者か。
 そして、リュミエールが何者になってしまったか。
 それも。

 狼の輪の途切れる先、何かが動いた。
 銀色に輝く何か。
 青年がぴしりと言い放つ。

「お見苦しい!」

 銀色の影の動きが止まるのを確認すると、彼は狼の群れに向かい高々と右手を上げた。

「今夜は俺が行く。ついて来い」

 冴え冴えとした透明な声がして、次の瞬間には青年の姿は消えていた。
 月の光に融ける白い閃光が辺りを包み、眩しさにロザリアが目を閉じたそのほんの僅かの間に。
 目を開けたロザリアの視界に映ったのは、闇の森へ抜けてゆくたくさんの灰色狼の群れだった。
 群れの足音が遠くなり、やがて聞こえなくなって、再び沈黙が白い広場に横たわる。
 残されたのはロザリアと、銀色の影。
 白々と明るい光に照らし出されたその場所は、まるで時間が止まってでもいるように、音もない。
 銀色の影、それは銀青色の美しい狼であった。
 息を飲んで、ロザリアは目を見張る。
 直感が声になった。

「リュミエールですの?」

 狼の水色の瞳がひるんだ。
 低いうなり声を上げて、ロザリアを威嚇する。
 見上げる視線は睨み付けるようであったが、ロザリアはためらわず足を進めた。
 迷わず手を差し伸べる。

「リュミエールなのでしょう?」

 数メートルの距離。
 ロザリアが、さらにその距離を詰める。
 狼はじりじりと後ずさる。

「リュミエールではありませんの?」

 銀青色の身体がくるりと反転し、ロザリアに背を向けた時。

「もうわたくしがここにいる理由も、なくなりましたのね」

 哀しげに続けたその声に、狼の動きが止まる。

「明日、発ちますわ」

 今度はロザリアが、狼に背を向けた。
 振り向きもせず、そのまま森へと向かう。
 闇の森へ足を踏み入れようとする、まさにその瞬間。

「意地の悪いことを……」

 何よりも聞きたかった声が。
 懐かしく、恋しい声。
 背を向けたまま顔を俯けて、ロザリアはひっそりと微笑した。

「わたくしがその言葉に逆らえないと、一番ご存知の貴女が……。
なんと意地悪なことをおっしゃるのでしょう」

 恨みがましく拗ねた声がさらに続いて、ロザリアの微笑はさらに濃くなった。
 ゆっくりと振り向くと、銀青色の狼は慌てたように視線を逸らす。
 その様さえもが愛しい。
 微笑みながら近づいて、そっと手を伸ばす。

「無駄な抵抗をなさるからよ。ね、リュミエール?」

 銀青色の毛並みに唇を寄せて、優しく言った。